嫌な人、気になる人、苦しめる人は、皆私自身だった

日々の棚卸

 

最初に少し、依存症について

話をさせてください。

依存症は、昔は中毒と呼ばれ、

よくアルコール中毒などとして

使われました。

精神医療や心理療法がすすみ、

その症状の本質が明確になるにつれ、

依存症という呼び名が定着しました。

英語でいうホリックです。

精神分裂病を統合失調症と呼び変えたのも

同様の意味合いだと思います。

呼び名が変わった理由は

様々考えられますが、

少なくとも依存症という“病”は

現在を生きる私たちにとって

切っても切り離せない可能性のある

症状だという解釈になったからかな、

と私は考えています。

鬱も同じような考え方ができますよね。

 

ここで取り上げたい依存症は、

特定の病理というよりも、

その根底にある感情に自分の行動が

支配されることについてです。

言い換えれば、

自分とのつながり方の病です。

もともと依存症は、

自分とのつながり方のエラーというか

おかしな方向へ行き過ぎたことが、

特定の形で現れたものです。

 

素の自分を受け入れる言葉や、

世の中とかけ離れた自分の感性や、

やりたいことをやっていく時間など、

子供の頃には与えられなかった、

あるいは認められなかった

行為や想いや受け入れの感覚を

大人になっても引きずったまま、

世間の評価と承認とを求める人が、

今も自分の中にくすぶる

怒りや僻みや卑下や軽蔑などの

感情のわだかまりとの

“ギャップ”によって心に生じる

激烈な凄まじい痛み。

この痛みを、

麻痺させるために依存症になり、

自分自身を生きづらさの世界に閉じ込め、

他者、それも親しい家族や恋人や

友人知人に向けて、

人の関係を壊し、職を失ったりします。

 

そこまでいかなくても、

得体のしれない不安に

苦しんでいる時、

その背後に横たわっているのは、

普段言葉にしない、

この“ギャップ”です。

人は何かをはっきりさせないと、

怖くて仕方がないから、

それを自分に向けたり、

他人に向けたりしながら、

変化を拒むようになります。

 

繰り返しになりますが、

依存症の根底には、

感情のしがらみがあって、

その感情に絡めとられてしまって、

本来のその人らしさが失われ、

身動きを取れなくしてしまっています。

 

別の角度から言えば、

セリグマンの言う、

学修正無力感によって、

この“ギャップ”で生じた

苦しみを自分の中にとどめます。

怒鳴られようが嘲笑われようが

ここしか選択肢がないと思って

心身を壊すまで働き続けたり、

周囲と比較して

動き出すことができない自分を

心の中で叱咤し、蹴り飛ばし、

ひどいときには本当に

眠ることもしない。

その痛みを、その原因を

理解していて、

これは一時的にそうしているだけで、

一段落ついたら

もっと自分に優しくできるような

時間を持ったり

仕事を変えたり、

働き方を変えたり

しようと考えているなら、

まだ救いもあるのですが、

自分や周囲を苦しめている状況は

それを認識していないからこそ

生じているものです。

 

自分自身を、あるいは他者を

傷つけ続ける人の周りにいると、

当然ながら、

疲弊します。

傷つきます。

下手をすると取り返しのつかないほど

心や体にダメージを負います。

特に肉親のように、

本来愛着を感じる人から

ひどい行為を受けた場合には、

世の中の見方や人との接し方に

色濃く影響を受けます。

ちょうど、喫煙者の周囲にいる人が

副流煙を吸い込み影響を受けるように、

依存症者が持つ世界観を

皮膚感覚に沁み込ませるように取り込み、

類似の見方で世界を見るように

なってしまいます。

 

そんな生き方を続けるうち、

日々の生活で、

嫌な人、

自分を不快にさせる人が

出てくるようになります。

 

子供の頃にはいなかった人々が

大人になると登場するのだから

不思議ですよね。

 

その人々がなぜ登場したかは、

依存症者の価値観を吸い込む話から

理解できると思います。

もう一人の私が目の前に現れて、

課題を突き付けているのです。

その考え方、

その感じ方、

その働き方、

その職業、

その立場、

その相手、

その収入、

その関係性、

その生活、

その未来、

どうして、そうなの?と。

 

こういった解釈は、

とても苦しく感じるかもしれません。

納得できないかもしれません。

 

自分の中に取り込んだ価値観が

自分を傷つける人々を登場させ、

それは自分の分身だというのですから。

 

まず自分を受け入れようということを、

この場で繰り返し述べています。

私たちは、

自分を見たように人を見るし、

自分を受け入れられない限り、

人を、世の中を

受け入れることはできないからです。

人や世の中を受け入れるとは、

出会う人や世の中を正しいとか、

誰もかれもが、何もかもが

素晴らしいということでもなく、

良きにつけ悪しきにつけ、

自分という人間がそうであるように、

他者も世の中もまた良し悪しを含めた

いくつもの側面を持っていることを

事実としてしっかりと見据える

ことができるようになる、

少なくとも変えられないものを

変えようとしておかしなあがきをして

不要な疲弊をしなくなる、

その力を自分としてどう生きようという方向に

振り向けられるようになる、ということです。

 

繰り返しになりますが、

目の前に現れる嫌な人は

鏡に映った自分です。

鏡に映ったのだから、

全く同じか、裏返しかのどちらかでしょう。

そして、そのもう一人の自分が

出来上がった過程は上述のとおり。

 

感情に絡めとられて、

荒れている人が大切な人であるのは、

つらいですよね。

その人を受け入れ、

その人に正の影響を与えたいのなら、

自分が変わることです。

自分を受け入れる、には

そんな意味まで含まれています。

 

だから、今が苦しい。

今の生活が、職場が、仕事の内容が、人の関係が苦しい。

孤独を感じ、強制性に縛られ、身動きが取れず、

何もかもが行き詰っているようで

もう何をどうしたらよいかわからない。

そういう時は、まず、

実現可能性は置いておき、

・自分にあった生き方はどういうものか、

・自分にあった仕事は何か、

・自分にあった働き方は何か、

・自分にあった規模は何か、

・自分にあった作業は何か、

・自分に必要な言葉や態度は何か、

・自分に必要な睡眠時間はどのくらいか、

・自分が欲する人はどんな人か、

・自分が欲する未来はどんな未来か、

などなどなど、

そういったことを正直に、

ほんとうに心の底から正直に

自らに問いかける時間をとって、

自分なりの答えを見つけることです。

 

できないよ、そんなこと。

存在しないよ、そんな環境。

ありえないよ、そんな未来。

 

100点満点は無理だけど、

10点でも20点でも変えていきましょう。

そのためにこの場があります。

考え方、コツはあります。

しかし、鈍重でも、格好悪くても、

まず自分で導き出すこと。

それがどうしても納得できなければ、

そこを基準として次に進めばいい。

 

それを繰り返していくうちに、

気がつくともっと気に入った場所に

自分がいることに気づきますよ。

 

 

…はあ、地震怖かった~。。。

 

ー今回の表紙画像ー

『お花』

PCの写真見てたら、料理のフォルダに一枚だけお花の写真が混ざっていたので…。