悩みを誰かに伝える威力

日々の棚卸

 

1.誰もが悩んでいる

悩みのない人はいない。

一度は耳にしたことがある言葉ではないでしょうか。

たかが悩み、されど悩み。

悩みの質や大きさは異なるにしても、

誰もがどこかに悩みを抱えていて、

でも日常は何とかやりくりしている。

あなたも、

私も、

あなたの好きな彼も、

あなたの大嫌いなあのオヤジも、

みんなミンナ同じだと思います。

 

悩みの種類は人それぞれです。

営業の報告レポートがうまく書けない、

朝の通勤が辛い、

二軒隣のおばさんと顔を合わせたくない、

リストラの影響で仕事量が捌ききれないほど増えた、

リストラされた、

職場はいつ頸を切られるかわからないほど

ピリピリして嫌だ、

収入が減って家の中がギスギスして苦しい、

枝毛の処理が面倒、

10億円の借金で首が回らない、

幻聴がとまらない、

人が怖い、

世の中が信じられない…。

 

悩みが、その種類を問わず怖いのは、

悩みの抱え方や重さがもたらす影響に気づかずに、

人の関係、

それも本来最も大切な自分自身や

同じくらい大切な身の回りの人々との関係が

蝕まれていくことです。

あふれてきそうなほどに重い悩みを

放置したままにしておくと、

徐々に何かの基準と自分の間に

“ずれ”が生じ、

それが次第に大きくなっていくからです。

何かとは、

判断の感覚だったり、

物事の解釈だったり、

感じ方だったり。

そんな状態を抱え込んでいる時、

その悩みがひとりでに解決してくれれば

いいのですが、

現実はそうもいかないようです。

 

2.つながりの病

最初に述べた通り、

悩みを伝えられずに苦しんでいる人は

少なくありません。

なぜそう言えるかと言うと、

抑鬱や適応障害などのメンタル面から、

胃潰瘍や腰痛などの肉体的な症状まで、

悩みが心や体の痛みに変わり、

行きつくところまで行きついて

初めてメンタルクリニックを受診したり、

心理カウンセリングを受けに来る人々が

とても多いからです。

なぜそこまで

悩みを相談することを拒むのだろうと

思った時もありましたが、

三十年前の自分を振り返ると

批判することもできません。

 

悩みを伝えられずにいる理由。それは、

プライドだったり、

恥の意識だったり、

馬鹿にされるような怖さだったり、

見捨てられるような気持だったり、

伝えたところで解決につながらない

というあきらめだったり。

でももしかすると、

悩みを悩みとして受け止めることを

学んでいないというのが、

最大の理由なのかもしれません。

心の病に足を踏み入れかけている、

という認識があればいいのですが、

そんなことは自分にはありえない

という思考が働いていて、

肝心な心の動きを感じようとしない、

という状況にあるのかもしれません。

そんなことを感じていちいち対処していたら、

それこそ今の仕事や家族の中で抱える

幾つもの”問題”を処理することが

できなくなる、

そうなるくらいなら自分がちょっと

今の悩みについて“ちょっとだけ”我慢すれば

全て丸く収まる、

そう考えているのかもしれません。

 

しかし、自分の本音、

深い部分にある本心とのつながり方が歪み、

あるいは断裂し、

あるいは遠ざかっている状態が

徐々に心を蝕む変化は、

頭で考えてわかろうとしても

難しいというのが本当のところです。

 

私の父は家族から離れていった後、

自らこの世を去る選択をしました。

息子としても、

そして一人のカウンセラーとしても、

あの頃の父が他の方法、

つまり何らかの形で生きることを

選択するサポートができなかったものか

という悔いの念が

時間が経った今も消えていません。

人の死に対して、他者が

「生きるべきだ」

「生きてほしい」

というのは

誤解を恐れずに言えば、

エゴと言うか、

死を選択する人のためと言うより、

自分の平安が乱される痛みから

出ていることだと思います。

それを承知の上で、

私は父に生きていてほしかった。

 

年間3万人と言われた頃より減ったとはいえ、

今も毎年2万人を超える人々が

自らこの世を去っています。

自分とのつながりを保ちながら

自ら死を選択するという人も

いるのかもしれませんが、

私にはうまく想像がつきません。

もしかすると、筋萎縮症など、

ある種の病に冒されている方などは、

そのあまりの痛みや生活の変化、

自分の体の変化をして、

尊厳的な死を選択されるのかもしれません。

しかし、自ら死を選択する方の多くは、

今と未来と自らの可能性とを儚み、

絶望し、

自分とのつながりも

大切な人々とのつながりも見失い、

あるいは感じられなくなった後、

何か目に見えない力働いたかのように

究極の選択をしてしまわれると思うのです。

 

3.吐露の威力、弱さを認める威力

不思議ですよね。

他愛もない悩みであれば、

ちょっと誰かに打ち明けて楽になるのですが、

もっと自分を苦しめているはずの

深刻な悩みであるほどに、

誰かに打ち明けるということが

できなくなる人は、

前述のとおり数多くいます。

できなくなるというより、

打ち明けても仕方がない、

自分が欲しいのは解決方法であって

慰めなんかじゃない、

という気持ちがどこかに

あるのかもしれません。

 

ですが、

頭で考えてしまうことの勘違いが

ここに含まれているんです。

その悩みに対してはそもそも、

実行可能な解はあるのでしょうか。

親子の絆の危機、

1か月以内に今より

条件の良い会社へ転職すること、

死が誘惑するほどの孤独、

限界を超えた仕事量、

周囲のいじめが永遠に止みそうもない、

消えたくなるほどの惨めさ……。

 

「解はあるよ」

そういう方もいるかもしれません。

そして続けて、

「あるけどさ、実行するのが難しい、

なぜなら……」

それは、解を持っていない、と言います。

では、解がないなら

打ち明けても仕方がない?

だいたい誰に打ち明けるんだ、

親友なんていないんだ、

師と仰ぐ人もいないんだ、

まさか高いお金を支払って

君の所に来いなんて

言うんじゃないだろうな…。

 

私たちに必要なことは、

実は解ではないことが多かったりします。

答えを求めているようでいて、

実は別の何かを求めている。

それが、

つながりとか、

選択する力とか、

実行力とか

言われるものだと思います。

 

その第一歩の一つが、

悩みを語るということです。

誰でもいいとは言わないけれど、

話すところはあります。

そこで、少しずつ話せばいい。

打ち明けることによって、

頭で考えてもわからない効用が

体と心に広がります。

打ち明けると楽になるでしょ、

とはある意味その通りですが、

それよりも脳の中に

余裕ができるんです。

心と体に、余力をもたらす隙ができるんです。

同時に、

自らの弱さを共有することで、

自分以外の存在を通して

見失っていたつながりの緒を

感じられるようになります。

その場で即、

臨場感を伴っては感じられないかもしれませんが、

そんな状況に身を置き続けることで、

日々の行動が変わり、

感じ方が変化し、

それらと相まって悩みと称していたものが

そのまま悩みでなくなっていくのです。

悩みというものは、

問題を自分事として引き受けるからこそ生じるし、

そういう意味では一般的に考えられているより、

ずっと高貴な状態だと私は思います。

しかし、残念ながら解釈の中に

エラーを含んでしまっているために、

致命的であるかのように

受け止めてしまうことが多々あります。

 

そんな状態の方々にとって、

悩み、それも抱えきれないほどの

大きく、深い悩みを吐露すること、

弱さを認めて語ることには、

思考ではたどり着けない、

例えば、

肉体労働でパンパンに張った状態の筋肉を

暖かい湯船につかってほぐしたような、

泳ぐことができる人なら、

大海原に身を揺蕩わせたような、

花粉症のない方なら春の森に出かけて

森林浴をした時のような、

そんな感じになるほど威力があることだと

お伝えしたいのです。

 

4.感じることと考えることのバランス

最初はなかなか難しいかもしれませんが、

自分の中に抱えていることが

自分を追い詰めていて、

考えるだけでは解決にならないと自覚できたら、

出かける場所はいろいろとあります。

今はオープンカウンセリングのように、

無料のカウンセリングやシェアの場が

あちこちにあります。

医療機関付属のものから

心理カウンセラー主催のものまで、

Googleで検索すればいくつも出てきます。

他にも、自助グループや仲間の集まりなど、

なんでもいいんです。

変にバカ高い有料のセミナーなどよりも

そういったところで、

語ること、聴講される人々と課題が

シェアされることで得られる、

それまでには感じることのなかった

リラックス感は、

タイムラグを置いて、

ガチガチに凝り固まっていた思考をも

スムーズに回転させるようになります。

 

私たちは、とかく感じることを恐れがちです。

感じることを恐れていると、

感じなくなる手前に、

感じる恐れのある嫌な感覚を予防する

無意識の機能が働き、

目の前の出来事に対して、

マイナスの解釈を行うようになります。

それが時々であればともかくも、

常態化してしまうと、

今ある自分を自分自身の本音と

切り離すことになってしまいます。

 

悩みは常にあるものだという前提に立った上で、

動けなくなっているな、

動きが鈍くなったかな、

何かを恐れているな、

そう正直に感じたら、

その重荷を降ろす場所を探してみてください。

その悩みが小さいうちに、です。

私たちは生き物であり、

一人の体が抱えられる物量に限界があるように、

心の積載量もまた限界があります。

降ろしたって解決するわけじゃない、

というのは大間違いです。

悩みが抱えきれないほど大きいときこそ、

降ろしてできる余力が、

治癒の力を発揮する土壌となります。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『アジの開き』

なんか食べたくなった。。。