『想い』という字をよく使っています。
「思い」でも「憶い」でも、
あるいは「懐い」とかでも
別段構わないのですが、
ここでは、『想い』という言葉を使います。
「慕う」は少し違うかな。
私の好みで使用しているのですが、
それなりの意味を持たせてもいます。
「おもう」という言葉と近い意味では
心で感じる、
頭で考える
などがあるでしょうか。
動詞として使用するときには、
いわゆる純粋に感情的な表現から、
結論が複雑で見えづらいような
ちょっとした論理思考の予想まで
幅広く使われます。
漠然とした言葉になりますよね。
これが「おもい」という名詞になると、
そこにある種の力が宿ります。
(「重い」は違いますが…)
少なくとも私はそう感じています。
それを、『想い』という意味で表現しました。
よく言われることではありますが、
つい頭でっかちになって
悩みや苦しみを思考だけで
何とかしようとして、
そうすること自体が解決から遠ざかることに
なってしまいがちな
私たちの日常において、
「おもい」を「感じる」ことは
とても大切で、
もっと優先順位を上げて行うことだと
常々考えています。
ちなみに、
感じること、感じたいことというだけであれば
刹那的なものも含まれます。
甘いケーキを食べたい、
セックスをしたい、
スポーツカーでかっ飛びたい、
マッサージを受けたい、
温泉でゆっくりしたい、
そんなことが浮かぶかもしれません。
いえ、これらもとても大切なことで、
(スポーツカーでかっ飛ぶ、は
違うかもしれませんが)
実現を願う方はぜひ、
ご自分の責任のもとに実行されればいい。
ただ、
苦しみや悩みが深いほど、
それらが一時しのぎの行動ではあっても、
本質的に何かが解決することは
まずありえません。
おそらくは、すぐに問題がぶり返したり、
別の問題が見えてくる。
では、と、
かつてもっと自分がうまくいったときの
方法を使ってみようとして、
なんだか今の自分にはしっくりこないけれど、
とりあえず実践してみても
やっぱり空回りしてしまう。
あの時はこんな感じで
うまくいったんだけどな、となってしまう。
一時的に興奮することや、
頭で考えて動くことは、
無駄というわけではありません。
ですが、
自分の内面をしっかりと見つめて、
『想い』を感じ取り、
そこから「湧き上がってくる感情」と
それに基づく「静かな力」は、
そういったこととは比較にならない、
地味だけど確実に私たちの人生に
変化をもたらします。
よく、利他ということが言われますが、
これは自らと正面から接し、
『想い』に気づき、
欲しいものを見定め、
そこに向けて行動していく中で、
もう一人の自分を助けたり、
一緒に笑ったり、
並んで歩いたり、
抱きしめあったり、
寄り添ったりすることで、
見えてくる世界です。
これは、
世の中のはやりすたりや
自分へ跳ね返ってくる嫌味や成績をもとに
はじき出そうとしても
算出できるような世界ではありませんし、
そもそも見えてはこないでしょう。
譲れるものとそうでないものを
『想い』をもとに、
明確にしてみてください。
特にやりたいことを決めるときや
実行するときはに。
無気力なら、無気力なりに条件付けして
書き出してみましょう。
疲労困憊で、起き上がれないなら、
寝そべったまま、
紙にペンで書いてみればいい。
そうやって自分を振り返り、
自分が決めたことを1つ1つ
実践していくことで、
『想い』のもたらす力を
感じられるようになります。
ここまで読まれた方にはお分かりのとおり
『想い』とは、
単に心で感じたり、
頭で納得したりすることにとどまらず、
最初に述べたように、
ある種の力、
例えば、
自分を肯定したり、
自分を許したり、
自分を律したり、
自分を勇気づけたり、
自分を守ったり、
自分に寄り添ったり、
そんな力が
わざわざこうやって文字に起こしたり
意識したりする以前に、
まるで泉が滾々と湧き出すように、
自分の中から自然に湧き上がってきて
気が付いたら実行している、
そういった
生きる上での根源的な力の素となる
感情であり、
皮膚感覚であり、
体感であり、
洞察であり、
世界観です。
この力が宿ると、
今度はその力の素を繰り返し実践しながら、
つまり、
自分を肯定したり、
自分を許したり、
……
ということですが、
変に自分を意識付けなくても、
スパイラル的に静かな力が
体の中に満たされるようになります。
私の両親は、
まるで昔からの仇同士でもあるように
互いに相手の尊厳を削ぎ落し、
怨念をぶつけあっていましたが、
それが一線を越えて、
互いが私に助けを求めて
すがり出したとき、
私にはなす術がありませんでした。
私には、
彼らを救うためのお金もなければ、
彼らの心を思いやる余裕も、
彼らのメンタルを治療する知識もなく、
彼らを抱擁する気持ちは
当に破綻していて、
心の表面は彼らに対する怒りと恐怖に
覆われていましたが、
奥底にこれ以上ないほど
しっかりと根付いていたのは
両親を救うことに対して
無力な自分という存在への絶望感と侮蔑感で
『想い』を完全に見失っていた状態でした。
自分を、あるいは『想い』を
見失ってしまったのが、
家族、両親のことがきっかけとなったのなら、
それがどれほどつらいことであっても、
自分がもう一度納得する自分を
生きることができるようになるためには、
両親との関係を正面から見据えて
自分の内面と対峙する必要がありました。
紆余曲折、試行錯誤の中で、
彼らとの関係を振り返り、
臨場感をもう一度体中に再現し、
自分が求めていた世界を
もう一度感じ取るための
内観、カウンセリング、気づき、
そういったいくつもの試みを実践しました。
それは、自分が見失った『想い』を
見つけ出し、取り戻すための
ちょっとした旅でもあったわけで
専門機関に出向いたこともあれば、
同じ問題を抱える人々との出会いでもあり、
労力も時間もかかりましたが、
そこから得たものは計り知れない大きさで
その後の私の人生を支えてくれました。
自分で言うのも何ですが、
かつて暗黒の世界に包まれていたはずの
両親への理解も
闇がきれいに晴れていくように
私の中で感謝の気持ちとともに進みました。
その後も、
母との邂逅や友人との再会、
自分への労りや働き方、安定した生活など、
これまで書いてきたこともあれば、
触れただけのこともありますが、
『想い』の力を心底から感じたのは
確かです。
普段から一言、『想い』と書いている言葉には
そんな意味を含めています。
ー今回の表紙画像ー
『町のドームと夕空』
今年は涼しい。
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