自分の世界を変えていくための祈り

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過去が今を決めているといいます。

 

過去の蓄積が、

今目の前に展開されていると。

 

それが本当であれば、

 

出来事は全て結果で、

その原因の中には過去の蓄積が

含まれていることになります。

 

出来事の中には、

もちろんあなたの気にならないことも

スルーしたこともあるでしょうが、

 

どうしてもひっかかったこと、

否応なく突き付けられたこと、

苦しくてのたうち回るようなこと、

 

それらを一過性のことではなく、

延々と引きずり続けているのは、

過去の蓄積によるところが大きいとは、

 

言えるかもしれません。

 

それほどまでに、

過去の蓄積は今を明確に規定している、

ということですね。

 

では、その過去とは何でしょう。

過去の何がそれほどまでに、

今を決めてしまうのでしょう。

 

 

この世界は祈りでできています。

 

おいおい、と言う方もいるでしょうか。

 

しかし単にスピリチュアルの話に留まらず、

社会のしきたりやルール、法律まで

影響を及ぼしているのです。

 

裁判の前に読み上げる言葉、

私たちが暗黙の裡に守る規範、

それらの根底には祈りがあります。

 

資本主義社会もまた祈りが根幹にあります。

 

これについては、

祈りの言葉の意味と共に、

別のところで述べようと思います。

 

祈るとは、

そうである希望の世界を前提として肯定し、

そうであろうと信じて行動することです。

 

何度か書きましたが、

平安の祈りもまたその一つ。

 

 

神様お与えください

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを

変えられるものを変える勇気を

そして二つのものを見分ける賢さを

 

また、『ありがとう』は

おそらく世界でもっとも有名な

祈りの言葉です。

 

アメリカ人がThanksと言い、

スカンジナビア人がTakと言う。

 

フランス人がMercyと頻繁に言うところは

あまり想像できませんが、

誰もが感謝の祈りを唱えています。

 

世界を旅するとき、

最初に覚える言葉の一つが「ありがとう」

というのはそういう意味もあるのかも。

 

ともかくも、

ありがとうという言葉のつぶやきは、

 

何万回、何十万回と繰り返し唱えるうちに

世界を少しづつ、確実に変えていきます。

 

日本では2011年になくなられた小林正観さんが

ありがとうの効用を何度も説いておられました。

 

もっとも、感謝の言葉というのは

誰もがその大切さと効用とを

身をもって感じておられますよね。

 

残念なことに、祈りの言葉に挑戦して、

祈りを模した恨みの結果が

返ってくることもあります。

 

この祈りなど、

実現するはずがないということを

証明するかのごとく、

 

祈りの言葉と

言葉を発する感情が正反対のまま

祈り続けていると勘違いしています。

 

どんな境遇にあって、

どんな生い立ちで、

どんな現実に苛まれていたとして、

 

変えられないものを

変えようとしている間は、

何も変わらないということを、

 

認識できていないために起こる

不幸なエラーですね。

 

祈りは、実現した幸せをイメージして

確かに今すぐには難しいことも

あるかもしれないけれど

 

そのイメージをもとに、

祈り続けるものです。

 

ということは、

過去の“出来事”そのものの蓄積が

今を決めているわけではないということ。

 

それから、

そもそも祈ってなんていないというあなたも

実はしっかりと祈っています。

 

ただそれがあまりに“当然”のことだから、

祈りと思っていなかっただけ。

 

そしてその“当然”の中には、

夢が与えられない、という不満と

うまくいかない現実とが

 

含まれていたことを否定できるでしょうか。

 

今を決めているのは、

あなたの生き方とでもいうべき、

祈りの質なのかもしれません。

 

祈るとは、すがることではありません。

拝み倒すことでもありません。

 

繰り返しになりますが、

 

祈るとは、

そうである希望の世界を前提として肯定し、

そうであろうと信じて行動することです。

 

 

過去の蓄積が今を決めているように、

今の蓄積が未来を決めます。

 

未来は今の蓄積の先に来ます。

 

今が100%望み通りの人はいないと言いますが、

祈った結果が丸々反映されているとすれば

誰にとっても望んだ結果なのかもしれません。

 

受け入れがたいですけどね。

 

ただ、これは裏を返せば、

あなたは人生をこれから変えていけることの

証明にもなっているわけです。

 

祈るとは、

そうである希望の世界を前提として肯定し、

そうであろうと信じて行動すること、

 

だと述べました。

 

いつもここで

多くの人がギャップに苛まれます。

 

そりゃそうですよね。

今が苦しい人が希望の世界を前提として、

と言われても、

 

実感が湧かないまま、

どんな希望を感じろと言うのだと。

 

本来、理想的な人の教育とは、

親や社会や国家から、

そういった希望をベースに

 

個々人が自由に望む世界を実現できる、

と思い込めるように自信をつけられて、

 

それに見合った祈りを繰り返しながら、

自分の人生を徐々に実現していくものですが、

 

実際にそんな環境にある人は

ほんの一握りであって、

私たち一般人は、どこかで歪んでいます。

 

こう書くと何だか親や周囲が悪いように

聞こえるかもしれませんが、

そういうことではありません。

 

そもそもそんなことが実現され切っている

場所はこの世に存在しません。

 

同時に希望となるのは、

与えられたかった私たちは

自分に与える側として機能することで、

 

その不足分をカバーし、

祈ることができるようになる、

ということです。

 

何度も書いていますが、

だからこそ実践の最初は

 

胡散臭さ、浮いた感じ、現実離れした感覚

 

が付きまといます。

 

それも慣れるまでのことです。

 

ただし、自分の人生なので、

それらを含めて自分で実行することが

大原則となります。

 

ポイントは“繰り返し”行うこと。

 

これ以上の希望なんて、

実はないのかなと思います。

 

未来に向けて、何を祈りましょう。

世界も未来も、あなた次第なんです。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『散歩で見た空』

川沿いの散歩道から少しはずれたところにある小さな祠。

普段は素通りするのですが、何となく気になって足を向けると、

みかんがぽつんと転がっていました。供物かな。