かけがえのない自分を生き、納得のいく人生を歩むためにできる最も大切なことの1つは、あらゆる自分を受け入れることだと書いてきました。
そこには、一度は頽れて不幸の谷に住み着いた自分自身を立て直すことはもとより、同じように、あるいはもっと打ちひしがれて逝ってしまった父や、世の中とも自分とも折り合いを持てずに荒れてしまった母を、本当は自分が何とかできたのではないか、という動機が発端だったような気もします。おかげさまでというべきか、二人とも大切な存在として、今私の中にしっかりと息づいてくれるようになりました。
自分がそうやって大切な想いと自己肯定感とを取り戻して生きられるようになったある頃から、自分を受け入れることの大切さと、時にはTipsらしきことを、かつての自分と同じような状況に苛まれている方々に敷衍することで、行き詰まりの“深み”にどっぷりとはまりこんでしまったり、自分を見失いすぎて自分とも他者とも関係性が崩壊してしまうような、本来人生に必要のない経験までを味わわなくてすむようにできないだろうか、と思うようになりました。そのことは拙ブログの一番最初にも書きましたが、このHPを立ち上げるささやかな原動力でもあり、その想いを否認することなく地道に準備を重ねてきました。
今こうして発信していられるのもまた、自分自身を受け入れ続ける日々の中で実現したもので、願いというのは叶うものなのだな、と実感しています。
そうは言っても……あらゆる自分を受け入れること。
人によっては結構大変です。
いえ、人によらずとも、受け入れることは難しいことも多い。
だって、皆、それぞれの理想があって、その理想をかなえたくて、それを生きるドライブフォースに変換して、自分なりに試行錯誤しながら生きているわけですからね。
それでも、自分を受け入れることの大切さは何となく理解できる。
だから、それなりにいろいろと試してみるのだけど、
あらゆる自分を完璧に知っている人などそもそもいない。
受け入れを体得できたことをどうやって知るのかわからない。
自分を受け入れることが自分らしく生きるために必要なことだ、と言われて試してみるのだけど、何だか何もできていない気がする。
そんなとき、
「私ってやっぱり駄目なんだ」とあきらめたり、
「俺ってやっぱり無能なんだ」と蔑んだり
そうやって、自分を嫌ってしまう。
自分を受け入れるつもりで試行したことが、自分を嫌う感覚を増幅することになってしまう。本末転倒ですよね。
もし、自分を受け入れることがうまくできないなら、
もし、自分をすぐ嫌ってしまうところに行き着くなら
もし、自分の周囲をすぐに忌まわしく感じてしまうなら
自分を受け入れることをあきらめてしまうのではなく、
そんな自分、
つまり、
自分を受け入れることができなくて、自分を嫌ってしまって、周囲を忌まわしく思う自分を、受け入れるところから始めてみましょう。
それだって最初はうまくいかないかもしれないけれど、
いきなり核心に入っていくのではなく、
うまくいかない自分のすぐ横にいたり、背後にいたり、一緒に座ったり、
最初はそんなイメージからのスタートでいい。
当然、そうやってそばにいる自分を遠ざけようとして感情が動くだろうけれど、
そこはもう、根気よく、繰り返してみること。
近づく自分を遠ざけるのも自分なら、恐る恐るでも横にいることを許すのも自分。
そんな自分が横にいるあなたを本質的な意味で傷つけることなんてありません。
気が付いたときには、ふと楽になっている自分を感じられる時が来て、そんな機会が徐々に増えてきます。
まだこういった世界を全く信じられていなかった駆け出しの社会人の頃のことですが、私には苦い思い出があります。恢復前の私の心ない反論に、辛い思いをさせてしまった方がいるのです。いつも話を聞いてくれたその方は、カウンセラーとも精神科医とも無縁の、ただのサラリーマンでした。
その方は私の話が始まると、仕事中であってもぞんざいに扱うことなく、最後までとりとめのない長話を興味深そうに聴いてくれました。私もまた、どうすればよいのかわからなかった家族のことや内面の苦痛を、男らしさ、人間とは、社会人とは、といった常套句を一切使わず、責められることもなく、話すことができることに、甘えていたのだと思います。
ある時、その方の笑いながら口から出た感想の言葉に反応した私は、悪意とも卑下ともつかない言葉を投げ返しました。その方が、私のことを見下したように感じたのです。
「どうしてそんな受け止め方するかなあ」
それまで漏らしたことのなかった困惑ともやりきれなさともつかない言葉を、その方はただ残念そうにつぶやき、その会話を最後に私たちが話をすることはなくなりました。もう四半世紀以上も前のことですが。
きっと当時の私にとっては精一杯の対応だったのでしょう。そもそもが根拠もなく、あるいは歪んだ根拠をもって、自分で自分を見下しているのだから、どんなに親切に対応してくれる人に対しても、悪意の部分を探そうとしたり、そうなるように解釈しようとしたりしてしまう。当人にとっては、これ以上ダメージを受けないように、自分が嫌われていたり、おかしいと思われていたりする部分は、前もって察知し、あわよくばつぶしてしまいたい。親切な方から“突然?”見下されたり、蔑まれたりされることは、確実にあると思っていたものが突然消え失せてしまうこと、急激に奈落の底に突き落とされてしまうといったショックの、プチ再現になる。それを味わうことは何としても避けたい、という、ほとんど本能的な動機によって、そんな態度をとってしまうのでしょう。
ただ同時に、その時心の片隅で、自分の態度が非礼だったと感じ入っていたのも事実です。
まだ落ち込もうにも落ち込む場所がないほど凹んでいた時期だったのですが、言ってはいけない反論をしてしまったのだな、と朧に感じ入っていたことは今も覚えています。
意に介さない善意を無下に非難することで自他にもたらすダメージにやられてしまったのだということです。
その時自分としたささやかな『約束』があります。
相手の言動に対して一瞬でいいから余裕をもって対応することでした。
きっと、本か何かでただこの文字面を目にしただけなら、くだらない、と一言で片づけていたような文章ですね。
ですが、自分の痛みに混乱して、その時自分自身が世話になっていた人を傷つけてしまった、大切な人々を傷つけないようにしたかったはずなのに、まるで裏返しの結果になってしまった、それを突き付けられたとき、自分がなんだか愚かで滑稽に感じられてしまいました。それが、『約束』の動機です。
自分を蔑む自分、自分を見下す自分、自分を忌み嫌い遠ざける自分。本質的な痛みはだいたいいつもそこからやってきます。
私と話す機会がある方の中には、どう解釈したらそんな受け止め方なるのかと厳しい言葉を投げつけてくることが、まれにあります。一様に、自己の受け止め方の歪みがもたらす痛みをそのような形で表現されているとわかるのですが、そこでからくりをお話ししたところで何も解決にはなりません。
必然、「今何を感じていますか」と質問して、ご自身の内面の痛みに気づいてもらうように働きかけています。
そして、その言葉、態度、何よりその受け止め方が、その感情をぶつける相手でも、その感情の大元となった相手や出来事でもなく、ただ自分を苦しめていることに早く気付けるようにできないものかと思います。
自分を受け入れるとは、自分を無下に苦しめないことで、自分がイラついたり痛い思いをしたりしているときは、自分の受け止め方を今一度見直すことをおすすめします。
。不意に襲ってくる自分への侮蔑 - 得体の知れない不安のこともあるし、大嫌いな人の顔が浮かんで言わせているときもある。でも、それは、どこまでいっても自分自身だと思うのです。
自分が苦しんでいるということをわかってください。
そしてその苦痛を和らげるために、他の誰か、ではなく、自分が自分にできることは何か、いつもそう自らに問いかけてください。
その答えの一つが、自分を受け入れることだということです。
ー今回の表紙画像ー
『西湘海岸夕景』
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