生きるために宿した愛着感をもう一度感じなおすことの大切さ

日々の棚卸

 

1.感情に揺さぶられ続ける日常

誰でも心がふさぎこむときがあると思います。

落ち込むときもあれば、一人取り残されたと

感じるときも。

「ただでさえ毎日が苦しいのに」

「そうでなくてもやりきれないんだ」

そんな状況に重なるように襲ってくる感覚。

でもそんな状況は、単発的なことであれば、

数日あれば元に戻りますよね。

 

ただ、元に戻ったとしても、

土台が病んでいると話が違ってきます。

 

いつの頃からか、いろんな物事が

うまく回らなくなってしまった。

望まない現実が頻繁に目の前に現れてしまう。

それは、

孤立だったり、

仕事を失ってしまうことだったり、

いつも上司や伴侶から叱られることだったり、

今の日々が続くことそのものへ苛立ちに

包まれていたり、

家族や身近な人々の言動が

感情を逆なでするようになったり…。

 

そんなとき、普段から

見ないようにしている心の奥には、

荒んだ日常をもたらす、

ある種の感情が横たわっているもの。

いつしか自分の中で醸成し続けた世界を

それが全てと信じ込んで、

そこに適応できない、

結果が出ないと感じている自分への苛立ち。

 

本当は、

想定している世界も唯一の現実でもなければ、

そこに自らを置いて

低い評価を与える自分も

フェイクであることに気づかない。

同時に、

信じ込んだ世界の裏側に隠されてしまった、

自分が生き生きと生きていた場所や感覚は、

なかったものと蓋をして久しく、

以降ずっと見ないようにしている。

まるで、

かつてよかったこと、

今もまだ息づいているものは

嘘であるかのように。

今の状況が自分の全てであり、

正しい現実だと認識するために。

 

2.自ら埋め立てた過去の一部

お腹の底から笑った日のことを覚えていますか。

感動に打ち震えた日のことはどうでしょう。

しんとした静けさに浸った日のことは?

何かに夢中になったあの時のことは?

そして、何をしてもしなくても、

自分がただそこにいることが当たり前だった、

あの頃の感覚は…。

 

消えてしまったのでしょうか。

見失ってしまったのでしょうか。

それともホントは、

最初から存在しなかったのでしょうか。

 

不思議ですよね。

自分の感覚なのに。

 

本当は……信じたくないのかもしれません。

自分の心の裏側にあるものを

もう一度信じてしまったら、

これまでの苦労も、

今いる現実(と感じているもの)も、

そして今頑張っている自分自身をも

否定してしまうことになるから。

ここまで歯を食いしばって

生きてきた事実も、

すべて否定される感じがするから。

だから、蓋をしてしまった。

だから、見ないことにしてしまった。

だから、心の奥底に自ら埋め立てて

その土台の上に望まないはずの道を築いて

人生を歩んでしまった。

 

もっと言うなら、

心の裏側に置いてきたものを

もう一度信じて、

また失ってしまったら、

断たれてしまったら、

ショックなどと言う言葉では表現しきれない

凄まじい衝撃に、

今度は本当に死んでしまうかもしれない。

そんな衝撃には二度と耐えられそうにない。

もう二度と味わいたくない。

だから、今の人生がどれほど

苦しくても、嫌なことが続いても、

それが唯一の現実だということにしてきた。

本当は、今歩んでいる人生の方が

ずっとフェイクなのかもしれないのに、

なんだかんだと言い訳をしながら、

心を壊し、苦痛を感じ、

それでも、また失って哀しい思いをするよりは、

まだましだと自分に言い聞かせ、

今日もまた不機嫌なまま、

同じことを繰り返しています…。

 

いかがでしょう。

 

3.体現しているもの

気づいているんです。とっくに。

植え付けられたと思っている意識。

二度と傷つかないように、

二度と痛い目を見ないように、

二度と苦しまなくて済むように、

二度とその問題が現れない生活を選び、

結果として、

緩やかに、ゆでガエルになる道を、

ゆっくりと、心が蝕まれていく時間を、

仮初の快楽で日常をまぎらせながら、

進んでいる。

そして何か不都合な現実が生じると、

自分はこんな経験をして、

その故にこんなことを感じるようになって、

だから今がこうなっている、と

今をひたすら正当化する。

 

そのことに、本当は気づいているんです。

 

一つだけ、付け加えてください。

今、この苦しい時間を現実とするために

必要な部分を自分が選択している、と。

 

自分が選択しているなど、

なかなか許容できないかもしれません。

なかなか感じられないかもしれません。

ひどいことを言うと思われるかもしれません。

 

でも、今、苦しいのですよね。

誰がそう望んだわけでもなければ、

誰がそうはからったわけでもなくて、

誰かが自分を陥れようとしたわけでもない。

 

4.自らへの愛着を取り戻そう

私たちは、自分に対する愛着を

取り戻す必要があると思います。

自分に対する愛着とは、

自分の体のことであり、

自分の感覚のことであり、

心、感情のことであり、

自分がこれまで生きてきた歩みであり、

その時々に行った自分の選択であり、

そういった自分が接してきた幾つもの世界に

自分が感じた愛しさや慈しみの感覚のことです。

それを取り戻すことが、

凍り付いてしまった心を再生し、

歪んでしまった魂を正常化し、

怖さに怯えた日常を払拭し、

納得のいく道を歩みだすことにつながります。

 

愛着というものは、

子供のためのものだと勘違いされています。

親に甘えることと思われがちです。

 

でも、実際に人生を、

充実して生きている人は誰もが

愛着の感覚をしっかりと覚えて

それを無視しないように生きています。

 

子供が親や周囲の環境に感じていた

ダイレクトな愛着感が

大人になって、

世の中とのつながり方として、

昇華して実現される時、

生きづらさや行き詰まり感さえもが、

ワクワクする一要素になり得ます。

今苦しんでいるということは、

その裏側に苦しみと比較しうる世界が

宿っているからかもしれません。

比較しうる世界とは、

今を苦しいと感じるほど、

楽しかったり、

気持ちよかったり、

安心出来たり、

落ち着いていたり、

愛情を感じていたり、

そういったことがごく当たり前に

感じられていた世界、

と言う意味です。

それらを無視して、

今に適応しようとしすぎているのなら、

取り戻すものは明確でしょう。

 

無理やりそれを感じようとしても、

なかなかできない相談かもしれません。

心の痛み、自己否定、世の中への怒り、

そういったものが強烈な壁となって、

“今”見えている感情を守ろうとするから。

心の痛みから自分を守る、ではなくて、

心の痛みを守ってしまっている。

それを慰めてくれなくては

先へ進みたくない、と。

自己否定から自分を守る、ではなくて、

自己否定している感覚を守ってしまっている。

自己を肯定してくれないと

身動きが取れないから。

世の中への怒りから自分を守る、ではなくて、

世の中への怒りを守ってしまっている。

その怒りを正当だと認めてくれないと

動きたくないから。

 

強烈な壁とは、

それまでの生き方であれば

自分を守ってきてくれたもの。

でも、自分自身が弱り果て、

あるいは迷い、うろたえ、

自らの生き方に疑義を呈するようになって、

肝心の自分がおかしくなってくると、

その壁の外に道を見つける必要がでてきます。

 

痛みは自分の一部。

逃げることなく寄り添って、

真摯に見つめてみると、

その向こうに、

今の状態を痛みと感じさせる対象が

朧に見えてくるようになります。

 

それが愛着と言う名の、心の原風景です。

声や、言葉や、風景や、

もっと抽象的な何かかもしれません。

そこがつながりだすと、

壁には潜り抜けられるだけの

隙間ができます。

一足飛びに向こうの世界に行くのは

さすがに怖いかもしれないけれど、

もともともう一つの、

そして愛着を感じる自分の一部なのだから、

本来恐れることは何もありません。

少なくとも、

向こう側にある何かが、

自分自身を傷つけることはないはずです。

幾度か足を延ばすうち、

気がつくと求める世界へ向けて

歩き出した自分に気づきます。

 

私にとってそのきっかけは、

どこにでも見られる、

街のはずれを流れる川の風景でした。

それはまた別の話ですが…。

 

ー今回の表紙画像ー

『よく行く河原にて』

街に暮らしていても、こんな風景を見ることはいつでもできる。。。