その昔、
美空ひばりさんという国民的歌手がいて
戦後の日本復興の象徴として
テレビや映画のスクリーンを中心に
大活躍されたそうです。
平成元年に他界した昭和の大スターで、
私自身は、
たまたまテレビに映っていて
たまたまチャンネルを変えない状況で
たまたま別のことをしていたときに
有名なおばあさんがテレビに映ってる、
といった程度の記憶しかりませんが、
私の母親は彼女が大好きでした。
年配の方には今もまだ彼女の
ファンが多くいらっしゃると思いますが、
母は、美空ひばりさんがたまに
テレビに映っていたりすると、
彼女の生い立ちから歌の内容に至る
様々な蘊蓄を語り始めまたものです。
子供だった私は、
母が嬉々として話す言葉を耳にしながら、
ほとんどスルー。
このおばあさんはだれだろう、
というのが正直な感想でした。
名前だけは憶えているのですが、
雪村いづみさんとか、
小林旭さんとか、
江利チエミさんとか、
母親は名前を挙げては
よしなしごとを口にしていました。
乃木坂46の白石麻衣の大ファンの方々が
どうなのかは知りませんが、
(福山雅治氏が写真集を購入したというのは
ほんまなのかな)
まるで自分の人生の一部であるかのように、
母は楽しそうに、
というか、
のめりこむように話をしていたものです。
近年、着々と商品化が展開されている
VR(バーチャルリアリティ)ではありませんが
きっと、
母親は自分の脳内イメージの中で、
彼ら彼女らの時間と空間を共有したVRの世界が
広がっていたのだろうなと、思います。
同じ母親は、
彼女の夫、つまり
私の父親との関係がおかしくなり始めた頃、
同じような番組を見ては、
私にもあんな頃があったけど、今の私はね、
と、随所で口にするようになりました。
美空ひばりさんの映像だけでなく、
はしゃぐ少女や、
友人同士のランチや、
アイドルの女の子や、
そんな番組を目にするたび、
昔はよかった、
今の自分はみじめだ、
(それは夫のせいだ)
とこれ見よがしというか
つぶやくようになりました。
今になって、
そんな母を振り返るに、
つらかったのだろうな、
途方に暮れていたのだろうなと、
素直に感じます。
もっとも、その言葉を聞き始めた頃は
私自身もまだ自分が固まっていなくて
猛烈な反発を覚えました。
同時に、
父親への怒りの反作用もあって、
そんな母親に腹を立てながらも
どこかで肩入れしていた自分に対しても
やりきれない思いが募りました。
その感情が消えたのは、
自分もまた彼女と同じように世界と接している
ことに気づいたこと、
そしてそこから
自分を受け入れる術を体得したこと、
何より、
人は自分が無意識に、
内在化した世界観に沿って
生き、
感じ、
振る舞う生き物だということを
理屈を超えて理解した後のことでした。
家を離れて、
両親の幸せを祈りながら、
自分のための人生を歩もうともがきながら、
父が母のもとを去り、
家を出ていったことを知り、
家族がおかしくなってしまったことを嘆き、
自分もまた何を信じればよいかわからず
混乱する時間がしばしの間続き、
カウンセリングやメンタル医療の世界、
歴史や戦争のこと、経済史、
そういったものを学ぶ中で、
再び彼女に寄り添えるようになったのは、
どこかでも書いたように
彼女が晩年になってからのことです。
その頃には、
かつて経験し、与えられた時間の出来事、
記憶に残る
メロディも
言葉も、
誰かの声も、
大好きだった人も、
大切だった物も、
町や川の風景も、
風や花や雨の匂いも、
それらが皆、
体の中で、
胸の奥底で、
混然一体となって、
まるで自分という存在が
ただそこにあるというだけで
感動するような、
充実しているような、
許されているような、
そんな表現しがたい、
自分が自分である、故に自分でいい
とでもいうような、
ほとんど意味を成していない
何かの感覚に包まれ、
それによって自分もまた
何かを包み込み、
与える、
そんなことをしようと
勝手に動き出し、日々を生きだしている
そんな状態でした。
そういった感覚をして、
ドライブパワーと呼べばよいのか、
他にもっと理解しやすい表現があるのか
わかりません。
それは、
その時々に感じ、内在化していた、
幸福感・豊かさ・つながりの感覚を
蘇らせることができたからだと思います。
誰かの物語に踊るのではなく、
そこに存在していた自分自身の
生き生きとした感覚が
まごうことなき自分の一部として、
ずっと居続けてくれたことを感じたとき、
その感覚が意識に伝わることを遮っていた
怒りや悲しみの感情を乗り越え、
時間を超えて
充実した幸福感が内在化されます。
母が逝去する数年前、
一緒に父の墓参りに行った時のことです。
私が混乱の中で父と母に腹を立てて
長い疎遠な時間を過ごす間、
母は、自分を捨てて出ていき、
自ら死を選択した夫が残した
ささやかな財産で
自分が暮らす田舎家の近くに
墓を建てていました。
墓を正面に見て
その時の母はしばらく何を言うでもなく、
もくもくと水で墓を洗い、
枯れた花を取り換え、
ろうそくに火をつけ、
それから手を合わせる前に
ぼそりとつぶやくように言いました。
「ありがたいな」
驚いて母の方を向くと、
「お父さんがいたおかげで
家もある、飯も食える
何とかまだ体も動くし、好きな畑もできる。
それに…」
と手を合わせてから
「お父さんとあんたら(私と妹)との思い出が
いっぱいある。
感謝せんといかんな」
と言って目を閉じました。
沈む夕日に照らされて染まった母の顔は
それまでになく穏やかに見えました。
正直なところ、母の言葉の一言一句を
明確に覚えているわけではありません。
というのも、
まさか、マサカこの人がそんなこと言うか、
こんな感謝のセリフを口にするのか、
という肯定的な言葉をさらりと発したからです。
何というか、感動を超えて、
久しくなかったほどにボーっとして
しまいました。
母と別れた後も、
関東へ戻ってくる車の中でも
ずっとボーっとした感じが抜けなくて、
よく東名を事故らずに帰ってこれたな、と
思います。
想像の域は出ませんが、
母は彼女に与えられた時間の中で
怒りや憎しみや哀しさに遮られて
遠ざけていた想いを
自身の中に内在化したのだろうと
思うことにしています。
かつて、彼女が、
というより誰もが一度は踊らされる
自分とは直接関係のない物語の世界、
そこに遊び、夢を見、時には欲望を持った
そんな世界を含めて、
過去のあらゆる時間の彼女自身を
受け止めたのだと感じられました。
その夜からしばらく、
涙が止まりませんでしたし、
私もまたその後の時間を、
さらに自分が納得して
生きられるようになったと感じています。
晩年の母と私の物語は、
決してここに書いたような
感動するものばかりではありません。
ですが、時に昔をぶり返しながらも
少しずつ互いが互いの、
いえ、
私がその年齢になってようやく母を
清濁併せて受け入れられるようになった
そういうことなのかもしれません。
母は偉大なり。
そう思います。
ー今回の表紙画像ー
『ラベンダー 散歩道沿い』
こんな時期に咲くんだったっけ。
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