本当の自分という言葉はなかなか危うくて、
大切なことを誤魔化してしまいがちです。
これは、本当ではない自分とは何だろう、
と考えるとよくわかります。
日常の中で生じる問題。
人との衝突や軋轢。
失敗やショック。
避けられるものもあれば
避けられないものもあります。
自分が人を傷つけることは
自分次第で避けられると思いがちだけど、
実際には思いもよらない形で
悪影響を及ぼすこともあります。
他にも、
親同士の衝突は避けられないし、
それで傷つく自分もある面では
避けづらいでしょう。
不注意でそうなることもあれば、
子供の頃から身に着けた価値観、
モノの見方、人との接し方によって、
必然的にそうなる場合もある。
出会い頭に曲がり角で
人とぶつかるのは不注意だけど、
ある人が言った言葉を悪意として
受け止めることは価値観でしょう。
あるいは、怖い苦手な上司に対して
ぺこぺこと媚を売るようになってしまうのは、
それが必要と判断したからでしょう。
心身は健康であるにもかかわらず、
ついそうなってしまうこともあれば、
病んでいたり疲れが蓄積していたりして
そうなることもある。
ここに挙げた話で自分が取った行動は、
本当の自分とそうでない自分とに、
分けることが『できません』。
どれもが本当の自分だとして、
そうなりえることです。
この考え方は受け入れられない
という方もいるでしょう。
では、なぜ受け入れられないのでしょうか。
おそらく、本当はそうしたくなかったのに、
そうしてしまった、
そうせざるを得ない状況に陥ってしまった、
強制的にそうさせられた、
それを本当の自分とは言わない、
そういうことではないでしょうか。
ですが、誤解を恐れず言えば、
この一連の『本当はそうしたくなかった』自分は
あなたが人生の中で選択した態度です。
仕方がなかったことであるにしても、
銃剣を突きつけられてそうさせられた
わけではない以上、
あなた自身が選択したことだと思うのです。
もし、過去に問題があるのなら、
つまり、社会人になった後に
『本当はそうしたくなかった』ことを
『脅迫的に』やっている自分がいるとしたら、
『脅迫的に』感じている自分がいるとしたら、
いつも申し上げているように、
その原因に遡って、
そうならざるを得なかった自分を
しっかりと抱きしめてあげましょう。
突き放したり、無視したりせず、
自分の持っている弱さ、儚さ、小ささを
自分の心臓や手足や心を扱うように、
優しく受け入れ、
自分の一部として生きていくと誓いましょう。
太刀打ちできない力に
強制的に服従させられることが
子供の頃から行われていたのなら、
そこに焦点を当てて、
その時の自分と一緒に寄り添い、
涙を流し、
エンパワーし、
今はもうその必要はない、と
伝えてあげましょう。
本音と建て前というものがありますよね。
建前上そうするけれど、
それは本音ではない、という、あの本音。
きっと本音ではないことを
いろいろとせざるを得ないと勘違いして、
実施してきたのでしょう。
最初に投げかけた、
本当ではない自分とは何だろう、
という問いは、
実は、本当ではない、わけではなくて、
本音ではない、
ということではないでしょうか。
わざわざこんな話をするのは、
大切な自分を生きていく上で、
理由はどうあれ、自分の取った行動を
本当ではない、としてしまうことで、
自分の取るべき責任を放棄してしまう、
結果として自分を見失ってしまう、
自分が変化できる可能性を失してしまう、
そのまま自分が被害者の位置に
添え置きになってしまうからです。
いつまでも、自分の望む道を
歩き始められません。
どうか、本音と本当を区別し、
本音をどう行動と合わせていくかを
考えてください。
最初は苦しいかもしれないけれど、
その考え方が根付いてくると、
自分の選択の自由度が高まることに
気づかれると思います。
ー今回の表紙画像ー
『夕映えの公園』
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