脳はなぜ「心」を作ったのか

書評

1.要約

人類が最も知りたいのに解明されていない究極の謎が2つある。1つは、宇宙はなぜどのようにできたのか。もう1つは、私たちの心はなぜどのようにできたのか、だ。宇宙の謎は深淵だが、より身近な心についても科学で解明されない形而上の謎のように思える。実際、何千年もの間、科学ではなく哲学の課題と受け止められてきた。

なぜ、自分の心は自分の体に宿り、今の時代に生まれてきたのか。脳神経科学の進歩は凄まじいが、決定的な答えを導き出すことはできなかった。しかし、心と体の成り立ちは実は同じではないのか、と考えている時に、謎を解く手がかりが見つかった。

 

心は、5つの働きを持っている。「知」「情」「意」、そして「記憶と学習」「意識」だ。記憶と学習には宣言的記憶と非宣言的記憶がある。宣言的記憶とは、エピソード記憶や意味記憶のこと。非宣言的記憶とはいわゆる体で覚えること。意識には文字通り、私たちの意識、そして無意識がある。

今のコンピュータで全く持っていないのは、この中で意識だけだ。あとの4つは何らかの形で表現することができる。

私たちは、自分が意識する以上に多くのことを無意識に行う。例えば、コップを持つ手を意識することはできるが、そこに焦点を当てるための目の筋肉そのものに意識を集中することはできない。

ここで、脳の無意識を担う小人たちを想定する。MITのミンスキー教授は無意識の自律分散的な処理のことを、たくさんのエージェントからなる社会と表現しているが、そのエージェントのことだ。脳の中の小人は、各々が自分の仕事をこなしているところを想像すればいい。

しかし、この脳の小人たちの機能では、意識を説明できない。

私たちが意識する、生きていることの質感(と作者は呼んでいる)=クオリア(茂木健一郎氏提唱)はどのように感じられるのか。これを現在のコンピュータは感じられない。それを知るためには、発想のコペルニクス的転回が必要になる。

 

受動意識仮説。意識は受動的である。それが新しいパラダイムとして提唱したいことである。

私たちが普段考えていると思っているのは、実は脳の中の小人である。胸がキュンと切なくなる情の動きもそうだ。楽しいから笑うというと能動的だが、実は果たしてそうとばかりも言えない。笑顔を作るから楽しい気分になる、ということもあるからだ。指を動かす、という意図さえ、実は同じであることが、カリフォルニア大学の神経生理学教室のリベット博士の研究結果によって示されている。指を動かそうと意識するよりもコンマ数秒前に無意識が反応しているのだ。これは、意識・意図してから行動した、というのが錯覚であることをも意味している。

その他、脳は遠近法の解釈のように空間を歪ませることもする。歪ませるということは錯覚させるということだ。さらに時間をも歪ませることを、カリフォルニア大学の下條教授らの実験結果が示している。特定の地場を作用させている時だけ、脳の中のニューロンの活動を阻害して視覚の一部が機能しなくなるようにして、時系列に異なる画像を被験者に見せていったところ、地場の作用で視覚が機能しなくなった時間に記憶された画像は、未来の画像だった、というものだ。

 

ここから、自分が意識したことに従って生きている、という心の天動説に変わる心の地動説が導かれる。従来の「私」では、「私」の周囲に、知・情・意・意識・無意識・記憶と学習があり、その外側に外の世界・環境があって、そこで生じることを五感でセンシングしながら生きている、というものだ。

心の地動説では、「私」(という意識)は行動、機能、言葉なども含めて無意識の小人たちによって司られる受動的な存在であり、そんな私が地球上で他の「私」とつながっている。そして、無意識の中で決められた知・情・意・意識・無意識・記憶と学習などが言動に至る決定の流れを川下で意識が見て理解している。そう考えてくると、これまで不明だったことがしっくりと理解できる。

では、意識は何のためにあるのか。ただ見続けるためだけ?

そうではない。意識はエピソード記憶のためにある。意味記憶だけでは、不便だ。個人的に体験したことをまとめる機能だ。この必然性から進化的に生じている。

 

(この後、脳と宗教や工学との関係、心を持ったロボットが生活に入り込んだ未来の話が出てくるが、私が取り上げたい直接の内容の先にあることなので、省略させていただいている。これはこれで面白いですよ(端折るな、と怒らないでね))

 

2.著者について

東京工業大学で学び、1986年に修士課程修了後、キャノン株式会社に入社。超音波モータや精密機械の研究開発に携わる。1990年から2年かUCLAバークレー校で訪問研究員、2001年ハーバート大学訪問教員。1995年から慶應義塾大学で教鞭をとっている。意識、幸福を扱った著作があり、最新の著作は奥様のマドカさんとの共著『なんでもない毎日がちょっと好きになる そのままの私で幸せになれる習慣』がある。2020年8月に出版された著書『7日間で「幸せになる」授業』では、それまでの研究を踏まえた幸せであるための生き方について書かれている。氏は現在、幸福学の研究の第一人者として活躍されている。

愛妻家、家族といる時間をこよなく大切にしていることを公言している。数ある著作を拝読しても、学問の追求というにとどまらない、生きることへの躍動が研究への姿勢と成果とともに伝わってくる、とても魅力的な感じのする方である。

 

3.気づき

前野氏の本は数十冊も出ていて、自分が取り上げたい内容に最もミートしている本はどれかなと迷った末、本書を取り上げることにした。本作は2004年出版で、研究成果的な説明を含むものとして少し古いかもしれないが、私たちの存在の本質の理解に極めてベーシックにアプローチしてくれていると思う。

この本に書かれている内容は、科学的な裏付けがあるために、技術屋の端くれの私などには反論のしようがないところがあるが、それにしてもこの「私」という存在の構造、特に意識と無意識の構造がこのように明らかにされると、今後どのように生きていくことが個々人にとって必要なことか、自ずと見えてくる。

非常に思い切り強引に端折って要点を取り上げると、私の意識、つまり私たちが明示的に感じ取ることができる私は実は主体ではなく受動的であること、主体は無意識であり、言動の判断、実行もそこがスタートとなり、意識はそれを見守っていることだという。

だとするなら、『今苦しんでいてそれを変えたい』と“意識”している私が、実際に変化していくためには、無意識のレベルまで『書き換える』必要があるか、あるいは外界(現実界)に対して『取り出す内容(表現していくこと)』を変化させていくしかしかない。いや、もしかすると他にもあるかもしれないが、少なくとも無意識という、自分が“意識して”触れられない要素が支配しているのであれば、無意識にアプローチする術を考えるしかない。

「…しかない」と書くと何だか否定的な表現になるが、実際にはできることがあって、それも決して理解が難しいことではないという意味ではとても希望が持てる話だ。少なくとも、私はこのHP、ブログで手を変え品を変え、そのことをお話ししてきたつもりだ。

膨大な無意識は、私たちが生まれ育ってこれまで生きてくる中で得てきた、記憶と情動とが蓄積した経験のタンクだ。この膨大なタンクが、日常の些末な出来事から人生の大きな節目の判断まで、何をどう考え、どう決めてどう動いていくか、その結果をどう受け止めどう次につなげるか、その継続によって徐々にその人特有の個性、生き様とどうあらわれていくかを決めている。

前世紀末の少し古いデータだが、アルコール依存症の父親を持つ息子の1/2はアルコール依存症に、娘の1/4はアルコール依存症の夫を持つ、という統計があるという。アルコールという取り込み物の話ではなく、底流にはその家族の持つ生き様、価値観があって、それが親から子へ伝搬していくことが依存症の世界では明確になっており、それを無意識が主体となって生き様にあらわれるということは証明していることになる。

 

無意識がその人の生き方のアウトライン、あるいはフレームを決めるのであれば、できることは前述のとおり2つだ。1つは、無意識を書き換えること。これは正確には書き換えるというより、蓄積していく内容を変えていくことで支配的なモノの見方や感じ方、価値観を変えていくことを意味する。それまでの判断や考え方、感じ方(要約で述べたように情動さえここが司っている)を変えていくトライアルを飽くことなく、そして正しく行うのだ。そうやって、それまでにはない類の記憶や情動が蓄積されるうち、無意識の動き(制御)、判断は変化していく。脳のシナプスは使っているものほどよく発火するが、それまである特定の脳回路を使って記憶し、情を動かしていた回路に変わって、新しい発火を促すことを繰り返すうち、それが主要な世界に置き換わる。その繰り返し、継続性に可能性が見えるのだ(村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』には、少し発想は異なるモノの、その種の考え方を取り入れた話があって面白い)。

もう1つは取り出す方法だ。記憶と情動が暗黒一色という人は皆無だ。断言していい。なぜなら、そういう方は生きていられないからだ。

恐らくそういう人はそもそも苦しまない。苦しむには比較が必要だからだ。ブログではそれを『あなたは幸せを知っている』として少し砕いた説明をしたが、少なくとも万人の記憶の中には自分を不幸に結びつけるとは限らないものと、それに伴う情動がある。それらを取り出すためには、道徳的、慣習的に言い伝えられているように、物事の良い面を見るようにすること、ポジティブに考えること、自分を慈しむこと(正当化することじゃないですよ)、自分がかけがえのない存在である(大切であること、素敵であること、立派であること)と認識すること、自分を律すること、他者と自分はつながっていると自覚すること、そういったことを真摯に続けていくことだ。継続するうち、それまで封印されていたり、気づかなかったり、遠ざけていたりした他の記憶と情動が取り出されるようになるときがくる。それが機能しだす頃には、変わりたい、変化したいと切に願っていた方向に動き出していることをすでに実感できていると思う。

 

多くのカウンセラーや精神科医が、本で、動画で、セミナーで、「一瞬で変わります」と伝えているが、それは変わることの性質による。詳細は控えるが、医療機関をのぞくと、本当に目も当てられないような育ち方をする哀しい例が垣間見えるからだ。変化の速度はその人によって様々だといわせていただく。営業的にはよろしくないのでしょうが。

 

そういう意味で王道に近道はないが、私に言わせれば確実な道があることが証明されたということは、何というか光明などという言葉では言い尽くせない、万々歳というか、踊りだしたくなるというか、もう興奮して文字に表現できない気持ちになる。涙が出るほどうれしい(これを書いている今もまた、歓びがこみあげてきています)。

人は変わることができる、というが、これまでは言い伝えや哲学や宗教の領域で、ある種の“信”をベースに動き続けるしかなかったことが、確からしさとして明示されたのだ。こんな救いがあるから、人生は捨てたものじゃない。

…と書いておきながらなんですが、しかも技術屋の端くれ出身でありながらさらになんですが、私は科学的な論理より“信”とか想いとか言ったものによって心が動かされやすいし、親和性が高い人間です。余談ですが。

 

心理の世界・心の機能の説明を、脳という科学的な構造に求めるべく、昔から医療を中心に多くの研究が行われていて、かつてはそこに何とはなしに反発を覚えていた。自分が抱えた原家族の悩み、父母の葛藤に端を発する闇、家族の離散、2人までもが実行してしまった自死行為、そういったものを“通り一遍”の理屈で片付けられることが不愉快で仕方がなかったのだと思う。多分にまだ青二才の20代も前半の頃のことで、最先端を行く医療従事者や研究者がのめり込むようにして、心なる存在を解明しようとする姿勢を想像して、その行為と態度を勝手に浅はかだと決め込むほど、自分の内の闇をそんなところへ投影する体たらくだった。

そんな若造が四半世紀のうちに確実に変化することができ、この世の中に生きていることの有難さ、幸せ、救い、歓び、そういったことに包まれるようになるまでに、多くの学びと世界観の矯正、人のつながりの変化と痛みの経験があった。時々、もう少し早くこの学びを言葉に変えて父母に届けることができたら、彼らは幸せに長生きしてくれたかもしれない、と過ぎてしまった時間に悔いを感じることがある。

 

もちろんそんなこととは関係なく、いや大いに関係して、この本、そして前野さんの他の著作の価値が減じられるものではないどころか、ともすれば生きることに迷いがちで、それでいて巷の宗教や教えに不信を抱きがちな私たちにとって、多大な恩恵を与えてくれていると思う。本著作の先に位置付けられる「幸せ」についての話を、別の機会に取り上げてみたい。

 

4.おすすめ

前章で書いてしまいましたが、私たちが日々思い悩む様々な問題の根に自分を見出し、変化することを求めることはあると思います。変わりたい、けれども変われない、そうやって何度も同じ場所をぐるぐると回っている感じがして、結局自分は何もできないのだ、と無力感に陥ってしまうと、その先に可能性を見出すことができません。

ですが、この本を読んでわかることは、変わりたい個人のベースにある記憶と情動の質にもよりますが、変化に必要な方向性と取り組み方、そしてもしかするとかかる時間まで含めて推測が可能となることだと思います。別の言い方をすると、あきらめない限り方向性がある程度定められるので、確実な変化が期待できるようになるということです。

頭でわかるメカニズムより、想いこそが大切だというのが私の考えですが、それを担保する仕組みの理解ができるのなら、実はその限りではないのかもしれません。

医療機関やカウンセリングを受ける中で陥った不信があったり、あるいは自分の変化に懐疑的になっている人にはぜひ読んでいただきたい一冊です。

そして、他も含めた前野氏の一連の著作は、科学に裏付けられた夢や可能性、そしてそれこそユングの集合的無意識ではありませんが、人とつながる無意識についての解説まであって、私という存在の理解が人とのつながり方の中で肯定的に学べます。この『脳はなぜ「心」を作ったか』以外でも、何か目についた一冊を手に取って読まれてはいかがでしょうか。