昔を思い出してばかりいるな、まだ若いんだから前を向け。最近は聞かないけど、今はどの程度使われているのかな。
社会人になりたての頃、さる年配の方にそういわれたことがある。あの頃の私には珍しく公のお酒の場に出席していた時のことだ。当時の私にその手の話をしてくる輩がいたということ自体稀有なことだが、話の流れがあったにしてもそんな言葉を投げかけざるを得ない程度には後ろ向きの雰囲気を漂わせていたのかもしれない。その方もきっと、若造が斜に構えながらも年齢不相応にガタがきている姿を見て、彼なりに励ましてくれたろうことも今ならよくわかる。
もっとも、自分の中では過去ばかり振り返っているつもりはなかったから、その言葉に反応して内心頭に来ていたのも事実だ。なんだ、そのわかったような口の利き方は、ということなんだろう。理由はどうあれ、人の善意も自分の意に添わなければ反感に直結したという意味では、子供だったと思う。
これを書きながら、もし今若い頃に戻ってそんなこと言われたら何か言うだろうか、と思ったけど、おそらくそんなこと起こらないだろうな、と考え直した。なぜなら、過去を振り返ることも、嘆く時間も、かけがえのない自分を生きていく上で決して無駄ではなかったと思えているし、今は何より過去が今を生きる自分を勇気づけてくれる感覚を繰り返し実感できているからだ。
年配の方にそう言われた頃、様々な記憶にどこまでも追いかけられ、追い詰められていた。その当時の家族の混乱がそれより過去のいくつもの出来事の解釈までをも暗いもの、悪いものに変え、なぜこんなことになったんだ、お前は何をしでかしんだと執拗に自分を責め続ける感覚だ。しかも、あの頃は追い詰められ感の理由も理解していなかったからその原因を社会に投影し、世の中を怒り怖がっていた。だから、人から自分に対して何かを言われると、内心に反感を覚えながら、神様のご宣告でも受けたがごとく項垂れる。信じる基準が消えかかっていたのだから仕方がない。それは、今のように過去が大切な自分の一部を構成する心の血肉と化した感覚とは180度異なったものだった。そうやって、少しばかり長い闇の時間を過ごした。
過去を振り返ることは誰にでもある。
過去は現在の、そして未来の礎でもある。
過去の受け止め方がその後の行動を決める。
子供の頃がどうであれ、大人である現在の自分を勇気づけられるのは自分だ。勇気づける自分の中には、子供の頃のことが原因で打ちひしがれた自分も大なり小なり存在する。そして、子供の頃が原因だから、と親のことをどうこう言う時期も短い時間であれば必要かもしれない。その時はまだ、自分の人生を自分以外の誰かに預けた状態だが、それも選択肢の一つだと思う。ただ、それを不幸な自分に対する優しい行為だと勘違いする人が多いのも事実だ。優しさに限らないが、自分に必要なことの表れ方・表し方の中に含まれるフェイクが、当人の希望とは裏腹に本来の目的を逸脱させてしまうことは多々ある。そこに気づくためには、今の自分を大切にするために自分としてできることは何か、良い方向への変化を感じているか、を繰り返し問い、得られた解に基づいて行動し続けることだ。
これが大変なことはよくわかっているつもりだ。仮にあの頃の自分がわかったような口ぶりでこんなことを言われたところで、何勝手なこと言ってんだ、お前できるのか、と言い放ってそれ以降は無視したかもしれない。
客観的に考えても、感情、メンタル面の行き詰まりで苦しんでいるのに、自分自身を振り返るというのはおいそれとできる簡単なものではない。だからこそ、多くの人が息苦しさの原因に怒りをぶつけ続ける。本当に必要なことはその時の自分を感じ取り、寄り添うことなのに。
子供の時、とても大切な友達がいて、その子が道端で座り込んで泣いていたとする。どうしたの、と話を聞くと、力の強い人からひどいことをされたというのだ。悔しくて、腹が立って悲しい。何も信じることができなくて、何もしたくない。そう言う友達のそばで、ひどいよね、と自分も横に座って一緒にいる。しばらくそうやって時間が過ぎるうち、友達が泣き止むと、話が自然にこの間一緒に出掛けたプールのことや一緒に食べたおいしいアイスクリームのことにうつる。二人で立ち上がると、またアイス食べに行こう、という話になって歩き出す。友達の中にひどいことをされた事実は残るだろうが、その時には心が満たされた自分の存在を大切にすることに想いが至るようになっている。寄り添った自分もまた、素敵な思い出を共有した友達と一緒にいられる。与えることは与えられることだ。
自分に寄り添う行動は意志の力で計画的には進まない。というか進められない。少なくとも私は進め方を知らない。しかし、意識して行うことはできる。意識して行動を始めてから、結果、つまり自分が良くなってきたなと感じられるようになるまでにはそれなりのタイムラグがあることは知っておいてほしいが、飽くことなく繰り返しくりかえし自分に寄り添い続け、今の自分にできることを優しく行い続けることで、結果はおのずとついてくると思う。ただし、自分を叱咤しながら、は反対の結果を招くので注意してください。
遠い昔、NHKの銀河テレビ小説なる番組で『優しさごっこ』という作品が放映されていた。風呂上がりだったか眠る前だったか忘れたが、居間に行くと必ずその番組が流れていて、親がいがみ合うこともなく見ていた記憶がある。これも朧な記憶だが、ドラマは、母親が家を出て行って父親と娘の二人暮らしぶりを素朴に?綴ったものだったと思う。
(何が面白いんだ?)と感じつつ、私も時々黙って画面を眺めていた。
大人になってその記憶を思い出し何となく気になり、古本を取り寄せて小説を読んでみた。内容は記憶にあるドラマよりもう少しシリアス感が強かったが、それよりも大きな勘違いに気づいた。題名から、優しいふりをし合うことの嘘くささを描こうとしていたと思い込んでいたのだ。こんな明確な表現ではなかったが、子供の頃にテレビを見ながらすでにそう思い込んでいる自分がいたと思う。なんとも歪んだ見方をしていたのだな、と我ながらあきれた。
だが、読み終わって感じたのは、家族一人一人が自分にとっての優しさとは何か、を考えて生きようとしていた、ということだ。離婚して、自分の道を歩もうとした母親と娘を大切で子育てに骨折りを惜しまない父親、大好きな父親と二人三脚で日々を生きる娘。皆が与えられた時間と人の関係の中で、できることをして生きている。本当のところは作者の今江さんに聞かないとわからないけど、この作品が1977年初版の児童文学であることを知って、とても驚いた。
『親が別れてしまったために、不幸になった子供がいる。しかし、親が別れなかったために、不幸になった子供もいる』
表紙についていた帯だったかにそう書かれていた。
私の両親は泥仕合の末、父親が家を出て行った。お互いがお互いの考えを押し付けあいすぎて生きることの息苦しさを体現したような夫婦だったから、ある意味皆が自由に生きるために起こったと受け止めてもいる。その間やその後に起こった出来事に思いを馳せると、今だって親に向けて批判したくなることがある。だが、子供の立場から親に言うことがあるとすれば、『あなたたちの残酷な衝突を繰り返し見せつけられること、その感情を抱いたまま子供と接し続けたことは、とても苦しかったし哀しかった』ということにつきる。それ以上は感情面の混乱を含めて、全て大人の自分が自分のこととして引き受け、心や体への影響が生じるたび、試行錯誤しながら対応することだ。そういわれると、そんなことできるか、と思われる向きもあるかもしれないが、経験上言わせていただければ、おそらくその方が生きることが楽になる。何より、それが人生を背負うということだ。
人間万事塞翁が馬というけど、それは願いでもあるのかな。
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