父の自死から二度目の冬が訪れた頃、眠れない夜が数か月続いた。昔からジョギングの習慣があり、走る距離を増やして疲労を誘うようにしたりアルコールに頼ったりしてみたが、横になっても睡魔は一向に訪れなかった。父の葬儀が終わってすぐ仕事に戻ると何事もなかったかのように働き続けていたが、仕事量を自主的に増やし、人の関係もギスギスしたものになっていて、最初はそんなことが眠れぬ原因なのか、と漠然と考えていた。父が他界した3月中旬は肌寒い日が続いていて、天候や環境で似ていることといえばそのくらいだったから、最初はそこに原因を求める考えもなかった。
物心ついてから眠れぬ夜は何度かあったが、継続した長さといい、体を覆いつくす感覚といい、この時の状態はそれまでとは全く異質なものだった。眠れない時というのは、心の裏側が妙に騒がしかったり得体の知れない焦燥感が地味に感覚を支配していたりするものだ。だが、部屋の灯りを消して暗がりの中で何も見えない宙を見つめながら感じたのは、落ち着きとか安心とは異なる、妙にしんと研ぎ澄まされた感覚だった。新しい意識なのか眠っていた無意識なのかわからないが、突然我が身に到来した状態に戸惑いながら、厳寒期の夜更けに背中を丸めながら車に乗り込み、湾岸のドライブを繰り返した。
その頃の私は父の死、ことに自死というものを正面から受け止めきれていなかったと思う。毎夜母の泣き言を聞き続けたせいもあって、父のことを母を傷つけ続ける残酷な“生き物”とし忌み嫌い、家を出てからは極力会うことを避けるようにしていたから、普通といわれる人々と比べれば自分の中での存在は大きくはないと考えていた。葬儀の時も涙は出なかったし、たいしたダメージはないはずだ、と。今はキャッチボールや釣りの時のさりげない会話、テレビを見て一緒に馬鹿笑いをした光景を懐かしく思い出せるし、それだけ大切な人だったと実感できているが、当時の父に対する見方というのはそれこそ遠ざけたい存在だったのだ。
ダメージはないはずだ。その考えがとんでもなく大きな間違いであることに気づいたのがこの時で、心身に影響が及ぶまで頑なに対処を拒んでいた自分に一時はあきれたこともあったが、それだけ親というものに恐怖していたのだ。それは、彼らが大切な存在であることとは全く別の話だ。親に合わずに生きていくうちに、そう感じてしまうような見方を自分の中に作り上げることで家族の問題と正面から対峙することを避けていたのだ。
父の自死のあと、私の中には一度は折り合いをつけたはずの凄まじい罪悪感の嵐が渦を巻いていた。もちろん言葉にして理解したのは、心理、というより人というシステムの構成を学んだずっと後のことだ。
以前にも書いたが、罪悪感の中には自分を消してしまいたい、ここにいてはいけない、生きる資格がない、といった自己否定の塊のような感覚が凝縮されている。私が社会人になった頃の父と母の共通の望みは息子が彼らとともに暮らしてくれることで、これに加えて父は家を建ててくれることを切望していた。実質的に夫婦関係が破綻した父母から離れることをずっと前から願っていた私は、働く場所が地元ではないことを理由に二人の元を離れたが、父の死後、要望をはねつけた自分が実質的に彼を死に追いやったという感覚に苛まれていた。
仕事にシャカリキになったのも、人の関係がギスギスしていたのも、人を死に追いやったという自己攻撃を否認し、それを外部へ投影したことが招いた結果としての行動だ。当時は自分も苦しかったが、周囲も私のために随分不愉快な気分になったのではないかと想像している。
この頃の楽しみというか気分転換は数少ない友人と電話で話をしたり、好きな釣りやドライブに出かけたり、といったことだったが、それで気分さっぱりというわけにはいかなかった。どうしようもなく追い込まれながらも、一方で何かを楽しもうとする『もう一人の』自分がいる事実に分裂性のような匂いを危惧してもいた。
実は、この『もう一人の』自分という存在は不思議でも何でもない。私たちはこの、複数ある自分を使い分けることで、ともすれば陥りがちな破壊的な方向への感情や行動の増幅を抑えることができているのだ。大切なことは、これら複数ある自分を認識することだ。
『アルジャーノンに花束を』で有名な米国の作家ダニエルキースが、実話をもとに『24人のビリーミリガン』を発表したのは1980年代のことだ。
自分以外の23人の人格が宿る青年ビリーミリガンがいくつもの強盗強姦犯罪を犯すに至る上で、彼の中に形成された多重人格のかかわりは大きいと言われる。実父の自殺、養父の性的を含む虐待といった複雑な生育環境は、父の自死という共通項を抱える自分にとっては身の震える話で、同情を禁じ得ないという言葉では済まされない。
彼の多重人格、いわゆる複数の人格が彼の中に宿っているという状況は往々にして特殊なことと考えられがちだが、その形成過程だけを見れば実際には私たち全ての中で同じように起こっていることである。
人格というと抽象的でピンとこないが、特定の状況で自分がどのように感じ、どのように振舞うか、と考えてみると少しは想像しやすくなるかもしれない。生まれ育つ中で親による躾や学校教育、友人との連帯といった中で培われるもので、当然その時々で見せる自分・振る舞いは変わる。例えば、親の前では反抗的な態度をとる高校生が恋人と一緒にいるときにはべたべたに甘い態度になるのは不思議でも何でもない。ちょっと厳しい部活動や会社勤めの中では、ヒエラルキーから特定の相手に下げたくもない頭をヘコヘコと下げたりもする。他にもあらわれ方はいく通りも挙げられるが、これらをして人格が分裂しているという人はいないはずだ。これは、そう振舞う個人の中に存在するいくつもの自分が緩やかに統合されている(という思い込みがある)からだ。
こう考えてくると、仮面をかぶって偽りの自分を演じている、という表現が成り立たないことがわかる。いつどこでどういう仮面をかぶってどう振舞うかの行動を含めて、その人の人格そのものであるからだ。
ビリーミリガンの犯した罪の大きさは半端なものではないし、被害を受けた方への同情は禁じえない。そんな彼の人格はウィキペディアを見る限り、長い年月をかけて安定したと記載されているのが救いだが、彼の成育歴が生み出した複数の人格の統合は、例えその一つ一つを丁寧に認識したとしても一筋縄ではいかなかっただろうと推測する。
大方が彼ほどひどくない生い立ちだったとしても、私たちが日々様々な自分を使い分けて生きていることは先に述べたとおりだ。多くは原家族にルーツを持ついくつもの自分を無意識にそれぞれの場面にあわせて見せているわけだが、自身の中に形成された複数の自分をいちいち意識しているわけではない。
ある場面でそうしたくない自分を演じたときは仮面をかぶったと表現するし、あまりに無様で惨めな振る舞いをした時には自己否定感も強くなる。もちろんそう感じるのは個々人の基準によるものであって、周囲が見た感想とは異なることは言うまでもない。
困ったことに特定の自分が出てにっちもさっちもいかない状況に追い込まれると、人はその時の自分が全てだと思い込む性癖があるようだ。つまり、一個の存在は常に一貫した人格を持つべきだ、という考えだ。消えたい、情けない、いなくなってしまえばいい。自分にそう断罪するとき、私たちはある特定の自分にフォーカスしてそれが自分の全てだと勘違いするわけである。
これはエラーだ。覚えておいてほしい。
芥川賞作家の平野啓一郎氏は、分人という概念を提唱している。平たく言えば、個々人の中には複数の自分がいて、それらは環境の中で形成されるし、必ずしも一つのまとまった人格ではない、というようなことだ。さらに遡ると、精神科医の斎藤学は、『あなた群』という表現で一個人の中に複数の人格があって何かのたびに都度せめぎ合っていると言っている。
平野氏は自殺をテーマにこの考え方にたどり着いたそうだ。少なくとも一部の自殺はこの発想で説明がつくという。人は、より良く生きようとするがゆえに、自殺に至ることがあり得ると。消えたい、と感じる自分の中の分人を“実際に”消してしまうことで他のより理想的な分人を強化する、という考えがそれだ。この考え方自体の是非はともかく、私たちが感じる感情は複数ある自分の中の一人が感じることだという点では、異論はない。
人はどこかで自己の統一感を求めている。その方が楽だからだ。そしてあたかも、自分をコントローラブルに感じられるからだ。
その延長上で、消してしまいたい、いなくなればいい、と感じる自分は繰り返しになるが、数ある自分の中の一人だ。そして、その自分が強くなることでおかしなことを実行してしまう。
2012年に特定非営利活動法人ライフリンクでの対話の中で、平野氏は動物と人を比較して以下のような趣旨のことを述べている。
「一般の動物にとって、敵対する相手が『死ぬ』ことと『消える』ことは同じだ。だから目の前で餌を争う相手が消えることと死ぬことの間に彼らにとっての違いはない。しかし人の場合はそうはいかない」
それが自分を死に至らせる背景にあるのではないか、ということだ。
自死という重い話をしてしまったが、コトはもっと日常の中に数多く存在する。傷ついたり、腹を立てたり、むかついたり、惨めに思ったり・・・。
ボクは、私は、気が小さいから、おっとりしているから、神経質だから、親からまともな愛情を受けていないから、鈍いから、暗いから・・・・・。
だから、うまくいかないんだ・・・。
そういった自分がいるのは事実だろう。
で、その時、それ以外の自分はどこへ行ったのだろう。幸せを感じていたり、多少なりとも自分が満足していたり、感動したり。
そういったときの自分はなくなってしまったのだろうか。あるいは存在することは知っていても、嘘で塗り固められた過去の産物で認識するに値しない存在なのだろうか。
『原風景を取り戻そう』の中でも述べたが、哀しいと感じ、不幸と受け止める私たちの中には幸せの想いが根付いている。それは仮面をかぶった自分ではなく列記とした一人の自分がその時確かに感じたことなのだ。そして、自分が死なない限り永遠に自分の中に息づいているし、消えたい、いなくなってしまいたいという自分を支配しがちな心の中にも、本当は場所を占めて存在している。
大人になるにつれ、私たちの中にはともすればよくない自分というものの認識が増えがちだ。理由は簡単で、親の保護がない人でも実際には社会から多少は与えられたであろう保護的なサポートがなくなっていくからだ。子供だから、と許されることもなくなっていく。年を取ると、むしろその逆にサポートを求められる側になるわけで、それができていないという認識までが自分を貶める材料に使われることさえある。
だが、そうやって個人を一つの固まった人格としてとらえて批判し続けたところで、私たちにとっても社会にとってもいいことなど何一つない。その見方がゆるぎない事実ならあきらめもつくが、ほとんど天動説の世界だったりするものなのだ。要するに、誤ったプライドが描いたフェイクの価値観を満たせなかったという必要のないショックをそこに留めて、自分をいたぶるだけだ。先に書いた通り、これが進んだ先に自らの命を絶つというところまでいってしまうことは何とも無念極まる。
だから、いちいち落ち込むな、気に掛けるな、というつもりはない。かくいう私はそれでさんざん悩んで今のそれなりに満足する自分にたどり着いているのだから。
ただ、追い込まれて自分を貶めがちな状況になったとき、このメカニズムを思い出してほしい。そして、私たちはこのメカニズムに基づいて自分を抱きしめる術を学ぶ必要がある。この方法論については別途述べたいと思う。
父の自死で眠れない日々が続いたことを最初に書いた。振り返れば、あの頃凄まじい罪悪感で死の一歩手前の感覚にあった自分を包んでくれたのは、他でもない他の自分たちだったと今ならわかる。確かに、彼らによって苦しみが消えたわけではない。しかし、ある破滅的な方向へ向かう勢いを削いでくれたのは間違いない。幸運なことに、その時の言動もまた愛おしい自分の新しい一部になっている。夜な夜なハンドルを握って暗い海を横に運転しながら聞いたポップスや夜釣りで釣れた魚と暗がりの町の風景、混乱の答えを求めて人の集まりに出かけて知り合った人たちや八重洲、丸善での長時間の立ち読み(本屋の方、すいません)。
私の好きな中村光が「荒川アンダーザブリッジ」かなんかで、悩んでいる誰かがひたすら街を歩いたとか日記に記録しているのを皮肉り笑っていたシーンがある。あれはまさに私のことで、あの頃足を棒にして歩き回って見続けた都心の景色もその時の心境も、今は大切な私の一部だ。
私の中にいるいくつもの私。それはどれも大切な私だ。ゆっくりでいい。少しずつでいい。日々そんな私を感じ取り、認識し、行き詰ったときには寄り添うようにしよう。
余談だが、私は道端のアスファルトの切れ目に咲いている一輪の可憐な花を見ても、ささやかながら口元に微妙に笑みが漏れる程度には幸せな感覚に浸ることができる。花壇でもなく人為的な不毛が作り出した場所にひっそりと咲く花の健気さに胸をうたれたから、などでは全くなく、小学校低学年の頃の思い出が感覚的に蘇るからだ。昆虫採集もどきを気取ってチビ助の私が、蝶を追いかけていたときのことだ。ちょうどアスファルトの切れ目から顔をのぞかせていたピンク色の花にとまったヤマトシジミにタモをかぶせて捕獲してみたら、実は一回り大きくて羽を広げた中身がきれいなウラナミシジミ(ヤマトシジミは灰色だがウラナミシジミはちょっと輝く紫)だった。これは、当時の私にとって望外の宝物をゲットした感動をもたらしてくれたのだ。30円アイスを食べたら当たりと書いてあったことよりビッグな喜びだったのだ。父は時折川の土手や川べりの道でトノサマバッタやモンシロチョウを追いかける私につき合ってくれたことに想いでがつながるというのもあるかもしれない。
ともかくも、ここまでくるとマニアックすぎて何が言いたいのかわからないかもしれない。
いつか、もう少しわかりやすい事例をかき集めて、楽しい場面集みたいなものを作ってみたいなと思う。
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