復讐なんてアホのすることだ

日々の棚卸

復讐。

穏やかな言葉じゃないですね。

武士の時代ならともかく、あるいはおヤクザさんやマフィアの関係者ならともかく、この平和な日本でいったい誰がそんな大仰なことをやるんだろう、と思われるかもしれません。

 

いやいや、大仰なこととは限らないですよ。

日々、家庭の中で、電車の中で、会社の中で、ママ友の中で、街のスーパーで、およそ人が集まるところでは、知人友人はもちろん、見知らぬ人の間で、規模は小さくとも、何かとやり返したりしていないでしょうか。

仕返し、と言うにはいささか行き過ぎの不穏当な仕打ち。

何かやられたなんて、それ自体思い込みということだってある。

車のあおり運転なんて、その最たるものの一つかもしれませんね。

 

夫婦だろうと、

友人だろうと、

会社の同僚だろうと、

たまたま駅ですれ違った人だろうと、

自分は被害を受けたからやり返す、という図式が内側で勝手に成立してしまうと、“復讐”の気持ちが自動思考でむくむくともたげてくる。この場合、かなわない相手には歯向かっていかないことが特徴の一つだったりします。

 

何というか、とても

無駄で

自罰的で(他罰は表層的なもの)

無意味で

その象徴のような行動。

男性に多いと思っていたけれど、そうでもないらしい。

 

“復讐”

その根っこにある感情は何でしょう。

人間、

自分に何かやりたいことがあったり、

自分に満足していたり、

わき目も降らずに走る用事があったり、

そんなときにおかしな感情を持つなんて、ほんとはそんなに暇でもないはずなんだけど。

 

その場で会っただけの相手、

仕事だけの関係、

好き合って一緒にいる関係

命まで取られるはずのない相手、

に対して、なぜか執念を見せる輩がいる。

心当たりがあるようなら、その関係の奥に横たわる古い感情が影響していないですか。

 

「復讐なんて、バカらしい」

初めてこの言葉を聞いたのは、1930年代のシカゴを舞台にした有名な映画「Sting」の1シーン。主人公の一人、ポールニューマン演じる詐欺師ヘンリーゴンドーフのセリフ。

ロバートレッドフォード扮する、身寄りのないもう一人の主人公でやはり詐欺師のフッカーは、とある組織の金だとも知らず、育ての親ルーサーともども手を出してしまう。組織が黙っているはずもなく、フッカーが後日ルーサーの家を訪れた時、彼は既に何者かに殺された後だった。フッカーはゴンドーフに会いに行くことに。生前、引退を宣言していたルーサーから、この業界で生きていくためにフッカーを一流にしたてあげてくれる最適な人物を紹介されていて、それがゴンドーフだった。

二人は組織のボスであるロネガンから50万ドルという当時の大金を巻き上げる計画を立てる。策を練り、いくつもの伏線をひいて、実行に移す前夜、無口なフッカーにゴンドーフが「任せとけ」という。「ルーサーの復讐だ」というフッカーに対してゴンドーフが言った「復讐なんてバカらしい。死んだ奴は生き返らねえ」という言葉。「じゃ、なぜやるんだ」と再び問うフッカーに「この仕事はやりがいがある」と付け加える。

 

ポールニューマンにロバートレッドフォード……。他界した父親より年を取った二人がスクリーン上で見せるパフォーマンスに夢中になっていたとき、不意に飛び込んできたセリフ、それが上述の言葉でした。

殺人だの、大金巻き上げるだの、復讐だの、エンタメの中の話だとは思っていたのですが、何となく、頭の片隅に引っかかったまま、長い月日が流れるうち、ああ、そういうことね、と自分の身に照らして納得せざるを得なくなりました。

結構有名な言葉だと思ってた割に、他であまり耳にしないですね。私が知らないだけかな。

もっとも、この映画では“復讐”したことがばれないようにするところまで徹底していたけれど。

 

脱線気味で申し訳ありません。別に映画のことが話したかったわけではないんです。

 

“復讐”

その淵源を少し迂回して探ると、日常の裏側にあるものが見えてきます。

映画では、愛情を持って育んでくれた者(ルーサー)を死に至らしめた者(ロネガン)に対する義憤と湧き上がる憎しみがもととなって、発せられた言葉です。“復讐”といっても相手を死に至らしめるのではなく、最後まで騙されたことがわからい状況を演出してお金を巻き上げることなのでちょっと毛並みは異なりますが。

映画は1930年代という、1929年の世界恐慌の引き金となった株大暴落直後の米国社会を切り取っています。スクリーンにも米国とは思えない掘っ立て小屋が街中にあふれていて、主人公のように仕事も親もなく詐欺師をして食い扶持をしのいでいるという人もまれではなかったと思います。そんな中で“きっかけ”を作ってしまった主人公に、人命を奪うという究極の方法でやり返してきた相手に対して、こちらもやり返してやろうというフッカーの感情は痛いほど身に染みてよく分かるし、共感もします。

ですが、残念ながら正当化はできない。

(だからこそ、ドンパチではなく大金を巻き上げる、という方法になるのでしょう)

 

こんな状況をして『共感する』が『正当化はできない』と申し上げました。

繰り返します。

共感する

でも、

正当化はできない。

 

現在に話を戻しましょう。

“復讐”

これのもとはいったい何でしょう。

切った張ったの世界ではないし、余程やり返さなくてはいけないことが何かあったのでしょうか。その感情を行動として実行する理由は何でしょうか。

念のためですが、私は「復讐するな」とは言っていません。

それですっきりして、明日からまた自分の人生を幸せに歩んでいけるのであればそれでいいのです。

ですが、おそらくこの行動を取っておられる方のほとんどは、日常に何らかのトラブルを抱えていたり、何かが行き詰っていたり、自分も他人も蔑んでいたり、それでいて自分に対する周囲や世の中の扱いはおかしい、非礼だ、と思って欲求不満を抱えていたりしていないでしょうか。そういった感情を何かをきっかけに“正当化”する手段として“復讐”していたりしないでしょうか。

 

わかってほしい。

自分を認めてほしい。

心理用語の「承認欲求」という言葉は、個々人の事情をあまりにひとくくりにする記号になってしまうので使いたくないけれど、それでも一言で言うならばそういうこと。

日常的な承認欲求が全く満たされず、あきらめてしまっていたり、最初からその欲求を無視したり、そんなことをしているうちに、別の場所に別の姿で欲求が歪んで表現される。

 

“復讐”

この手段を放棄するのは、人によっては難しいかもしれないけれど、解決策は、日々自分で自分を認める力を内在化すること。日常の自分自身と常にともにいること。

その力の向きを肯定的な方向へ変えて、自らをしっかりと認めてあげよう。

本当に、ただそれだけのことなんです。

それが歪んで表出してしまうと、自分に対するダメージは“復讐”された相手より、実はずっとずっとずっと大きいのです。

そのダメージが蓄積されて、しかもそれをアルコールや食べ物や出世やなんやかやで誤魔化していると、やがて何倍にもなって自分と大切な人々の人生に跳ね返ってきてしまいます。

やられた時は自分がコケにされた、このままでは落ちていくだけだ、と感じるかもしれない。

でもそうじゃない。

人に投げつけた悪意は、返す刀で何倍もの力で自分の人生を蝕んでいきます。

復讐だって同じ。

そんな時間はもう必要ありません。

 

……ところで、復讐の対象って、ほんとに相手の悪意?

勘違いとかじゃなくて?

見方が違ってるだけじゃなくて?

自身がないだけじゃなくて?

受け流した方が良くない?