正論なんだけど何となく受け入れられない。
そういうことってありますよね。
人は感情の生き物だからといえば
それまでなんだけど、
それにしてもすんなり「はいそうですか」と
言って納得できないことです。
理解するというロジックと
納得するという感覚。
二つを満足させるために必要なこと。
それがないと双方に有効に働きかけられない。
では、それとは何か。
それは『信じること』。
とてもベタですが、
我慢して読んでください。
信じるという言葉は人によっては
胡散臭く感じるかもしれません。
それは、
信じたことが叶わなかったから。
信じた者に裏切られた経験があるから。
信じることで異様な束縛を感じ取るから。
先日もタケコプターで登場したドラえもんの話。
というか、のび太君とママの会話です。
(正確ではないこと、ご容赦ください)
のび太ママ:
「ママが子供のころは戦争があってね。
食べ物もろくになかったの。
だからご飯残したりしちゃダメでしょ。
のびちゃんはうちに食べ物がなくなったら
どうするつもり?」
のび太:
「近所のラーメン屋さんに食べに行く!
おいしいお店があるから行こうよ」
戦争とか食べ物の話がしたいわけでは
もちろんありません。
ちょっと考えてみていただきたいのですが、
のび太君はママのことを
どう感じているでしょう。
仮にのび太君がママを恐れていたら、
こんな反応はしないでしょうね。
恐れてはいなくても、
本当は別の問題で腹を立てているのに、
八つ当たりばかりされたり、
いつもパパとけんかばかりして
のび太君を悲しませていたり、
躾や教育と称して
引っ叩いたり怒鳴ったりするのに、
なぜかいつも不幸そうだったり、
不倫して家にあまりいなかったり、
自分で解決できない問題があると
泣きながらのび太君に縋ってきたり
もし仮に、のび太ママがそんな人だったら、
どんな正論を言ってこられても、
きっと受け入れられないでしょう。
そんな経験、ありませんか。
おじいちゃんとおばあちゃんがいたから、
お父さんとお母さんがいたから、
国があったから、
食べ物があったから、
何があったから、
何が良かったから、
あなたは今生きていられるのだから、
文句を言わないで頑張りなさい…。
ものすごい違和感を感じている人、
少なくないと思います。
「それってさ、実は順序が逆じゃない?」
そう思ったりしないでしょうか。
そうやって、恩恵を語るのなら、
なんでそんなにいつも苦しんでいるの?
なんでそんなにいつも悲しんでいるの?
なんでそんなにいつも怒っているの?
なんでボクをワタシをそんなに悲しませるの?
ボクの、ワタシの存在は、想いは、願いは、
誰がどこで認めてくれるの?
誰がどこで受け入れてくれるの?
そんな疑問が解けないままの状態で、
“これ以上”何に感謝するの?
“これ以上”何をすればいいの?
何をどうしたら、ボクはワタシは、
悲しまないですむの?
何をどうしたら、パパもママも
これ以上苦しまないですむの?
いかがでしょう。
上記以外にも、
いろいろな感情が迸ったり、
伝えたくなったり
したくならないでしょうか。
自分の存在がとても、軽く、希薄に、
感じられる社会では、
自分そのものがともすれば社会の隅の付属物
としか感じられず、
先の言葉“順序が逆…”は。
学校や塾や家庭や会社や、
そういった自分が所属するはずの場所で
空っぽの自分に向けて
いくつもの“嘘”がぶつけられ続けた人の
正直な反応であり、
感想であると思うのです。
「それってさ、実は順序が逆じゃない?」
何か、絶対的なものが欠けている、
そんな感覚を言語化したらこんな言葉になる
のではないでしょうか。
さて、標題のとおり、
話はここでは終わりません。
ここで終わっても中途半端ですけどね。
もし、あなたがそう思うのなら、
つまり、
順序が逆だ、
と感じるのなら、
それはあなたにとって正しいと思います。
率直に、真摯に、自分の内面を見つめて、
正直に感じるのなら、それはきっと
あなたにとっての真実です。
程度の差こそあれ、
それが日常に影響を与えるほどに
あなたの感情と体を苦しめているのなら、
それは間違いなくあなたにとって、
“最優先で対処”すべきことだと思います。
では、
“最優先で対処”とは何を指すでしょうか。
こういうことだったんだぞ、
と親に当たるのはできれば避けましょう。
不毛だし、ほとんど無意味だし、
おそらくはある種の残酷な仕打ちになって
しまうからです。
何より、心の底の底では、決して
親に向けて理屈を説明して文句をぶつける
などということは望んでいないはずです。
いやいや、どうしてもそうしないと無理、
という方は
それこそカウンセリングなどで
感情の吐露と整理をしていただくことを
おすすめします。
“最優先で対処”とは以下のことです。
“順序が逆”と言いました。
その根底にあるのは、
自分が認められていない、
自分が受け入れられていない、
そういうことでした。
それを自分で行うのです。
つまり自分で自分を認め、
受け入れていくのです。
順序が逆、と感じて、
自分を苦しめた相手に憤る自分を含めて。
きっと一筋縄ではいきませんが、
それでも受け入れが始まると、
それまで全く無視したままだった自分が
他に何人も出てきます。
そこでかつてのように遠ざけることなく、
ひたすらにその至らない自分たちを
自分の一部だと抱きしめ続けていくと、
やがて、不思議なことが起こります。
許しを感じるようになるのです。
あなたは既に許されていて、
世の中の大切な一部として
最初から受け入れられていたことを
体の芯で感じるようになるのです。
それはやがて感謝の念として
感じられるようになります。
自分を自分たらしめてくれていた自分と
あまりに不完全なはずの自分のそばに
いつもいてくれた存在への
静かではあるけれど、
深いふかい感謝の念が湧き出てくるのです。
それは一言で言えば、
不完全な存在への慈しみの感覚です。
不完全ながらそこにいてくれた自分、
不完全ながらそこにいてくれた存在、
そうやって成り立っている世界、
それらが皆、愛おしく感じられるように
なります。
その時、親に向けてこう感じるでしょう。
この人たち、こんな
いつも怒っていて、
いつも騙し騙されで生きていて
いつも泣いてばかりで
いつも人を悲しませるしかできなくて
いつも日々の生活に追われて苛立っていて、
いつも誰かと罵りあっていて
そんな不完全な状態で、
自分を産んでくれた、
ミルクを与え、着ぐるみを着せて
ここまで育ててくれた、
話をしてくれた、
ひたすらに与えてくれた、
そう素直に感じられるようになります。
彼らが出してきたものが歪んでいたことへの
反感と不足は
歪んだ状態ではあっても
彼らにとっての精一杯の愛情表現だったのだ、
と彼らの限界とともに
自分の一部として引き受けようと
思えるようになります。
自分を意に沿わない不完全さにした、
という受け止め方を
傲慢だと思える幸運が
舞い降りてくるはずです。
そして、こう思うでしょう。
私は、そうやって彼らを信じ、
家族を信じ、
世の中を信じていきてきたんだ、と。
ならば今だって、信じることはできる、と。
あとは、
自分が自分に与えられた力と、
足りないものはこれから開発して、
これから行うことによって、
自分が望む人生に近づけるように、
歩ていけるようになることだ、
それは決して不可能じゃない、と。
不思議ですね。
順序が逆、を認めてそれに従ったら、
ぐるりと回って、
順序通りになりました。
後半は、受け入れが進まないと
文字面で見ただけでは、
実感がわかないかもしれません。
今回のことは、また別のお話でも
取り上げたいと思います。
ー今回の表紙画像ー
『月の出 大磯の港』
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