友人と話し込んだ夜更けの帰り道で、パソコンのディスプレイから窓に映る空を見上げて、人でごった返す地下鉄の改札を足早に抜けながら、ふと物憂げな感慨に陥る時、町の中を流れる川の風景を思い出す。しばらくするとそこに釣り糸を垂らしている私や父の姿が浮かび、時々一緒に出掛けた母や妹の姿が重なり、釣り上げた銀鱗の魚体が飛び跳ねる光景まであらわれる。季節ごとに異なる川の水独特のにおいに魚や釣り餌のそれが加わり、土手の乾いたコンクリートや周辺に生える草花までもが参加しだす。
かつて私という存在をもその一部として構成されていた町外れの世界が、今は私の一部を構成するささやかな要素として、私という器の中に私という存在の記憶として納まっている。
自分の想いがここから離れる時間が続くと、どこか調子がおかしくなるように思う。症状は様々だが、今一つ自分自身ではない感じがするようになるのだ。
家族がばらばらになって、ずっとあるものだと思っていた土台が壊れたと感じた後も、私という存在を潜在的に一体化してつないでくれた感覚の一つはそういった風景だったと思い込んでいる。いつも言うように、大切な原風景の一つだ。
家族機能を研究対象にしているさる精神科医は、訪ねてくる私のようなクライアントに向けて、「家族かぞくとばかり言ってるんじゃないよ」と言っていたが、外せないものは外せない。その程度には多くの人々は自分のルーツである家族に昇華すべき愛着を抱えている。
こういったこと、つまり失ったと思っていた家族から受けた恩恵の部分をあらためて意識するのは、まさにそれが私の中で一度は消えかかった感覚を味わったためだと思うが、それほどに自分だけは家族の力を借りずに一人で生きていると勘違いしていたのかもしれない。この哀しい出来事から学べたことがあったとしたら、人によっては当たり前のその気づきだろう。
学生になって家族の元を離れて暮らしだしてから、もう一度この感覚にたどり着くまで長い歳月を要した。
一人で暮らし始めた頃は生活の全てが自分の裁量で決められる自由な楽しさの中で意識する必要もなく、家族に“コト”が起こった後は意識する余裕もなかった世界ともう一度接したのは、父が自らこの世を去る少し前のことだった。
何をするにも元気が出ず、梅雨時の湿った部屋の片隅にできたカビのごとくウジウジとしているか、空威張りで尖がっているかだった頃、そんな私にありがたくも声をかけてくれた方がいて、その言葉が「釣りでもやりなよ」の一言だった。当時の喫煙仲間として、のべつ幕なし駄弁る間柄だった方からのその一言が、なんとなく頭の片隅に残った。
活動を再開したのはその頃からで、川よりも海であることが多かった。何年も前、とあるグループが隔月で発行する会員用の通信雑誌に無料のコラムを書いていたことがあって、そこに釣りを再開した当時の描写があったので引用する。
『やりだすと、子供の頃の感覚が蘇り、ひたすら魚を追うようになった。仕掛けを作り、釣り日誌をつけ、なじみの餌屋で情報を集め、そして何より、現地の人さえ知らないような場所まで海岸沿いを嘗め尽くすように探った。三浦半島は東京湾側を皮切りに、三浦、湘南、西湘、東伊豆から半島をぐるっと回って狩野川河口まで、毎週末車を走らせ、フェミニスト真っ青に靴の底をすり減らし、危険な岩礁を乗り超え、合コンをキャンセルし、ファミリー連れの好奇の視線に耐え、バカップルどもを蹴散らし、草の根運動のごとく、水のあるあらゆる場所に顔をだし、糸を垂らした。まさに、海岸沿いに知らない場所はないといってよい。』
・・・ということだそうだ。のめりこんだ様子が伝わってくると言うと他人事のような言い方になるが、いろんなものを放り出して熱中したのは確かだ。
今も時間を捻出しては水辺に出かけるが、活動域は海よりも近所の川に戻ってきている。
子供の頃に家族で釣りに出かけた経験は、今も原家族に感謝していることの一つだ。出かけている間にもいがみ合いが頻発した、必ずしも皆でいることに心が躍ったわけではないが、今の自分が力づくで遠ざけようとしない限り、彼らはもう私につらい思いをさせることなく懐かしい風景の中で一緒にたたずんでくれている。
出かける先は家から歩いて10分ほどのところを流れる一級河川であることが多かった。長期連休には、まれに海にでかけることもあったが、川の風景は今も自分の体に感覚として、風情として、最初に述べた通り懐かしさの感情の中核を占めている。
そういう意味で風景そのものが自分の体に宿っている一体的な感覚は、釣竿を通して伝わってくる魚の引きの感触や水面にあらわれる魚体を見た時に感じる興奮よりも、ずっと日常生活に近い部分だ。目の前を流れる川の匂いや土手の向こうにうっすらと見える建物の連なり、家に持ち帰ったチビウグイやチビ鮒、チビドンコたちが縁日ですくってきた金魚たちと同じ水槽で一緒に泳ぐ姿、釣り場の周囲に繁茂する草花の匂いや色。
これは父の存在がとけこんでいる象徴のような原風景の一つだ。彼はたいがい仏頂面の咥えタバコで釣り糸を垂れていたり、魚の反応がないことにぶつくさと文句を言ったり、時には大きな鯉が釣れて饒舌になったり、と様々な表情を見せたが、それは先に挙げた周囲の風景や匂い、音に囲まれて、かつて一緒に暮らしていた父を最も身近に感じさせてくれる。そこにいるのは、日常生活の随所でそうであったような、母に残酷に接する男でもなければ現実に悪態をついて自らの不幸に憐憫の言葉をつぶやくおやじでもなく、私に八つ当たりの手を出してくるしょうもない大人でもなかった。今なら彼がなぜそうなるのかのメカニズムは理解するが、妻を見下す接し方の一挙手一投足は(常に母から泣き言を聞かされていたこともあって)息子からすればその残酷な仕打ちが常に反感の的になっていた。
中学、高校と進む中で、周囲の友人よりは接する回数が多かったとはいえ、徐々に身近な自然から遠ざかっていったのは、若造なりに忙しかったからであると同時に、そういったお世辞にも覚えていたくない光景や空気感とつながる場所を遠ざけたかったというのもあったと思う。
もう、そんなものはどうでもいいんだよ、俺には関係ないものなんだよ、やつらはああやって勝手に生きていくんだから知ったこっちゃないんだよ、と。
ほんとはどうでもいいはずなどないのだけれど、他の理由も重なって随分長い間別の世界の出来事のように記憶の彼方に遠ざけたままになっていた。母から聞かされる泣き言のの中に、子供の前では見せない、もっと残酷な父の言動(母の葬儀の後、多くの嘘が混じっていることを知った)を知った後では、彼との距離は忌み嫌う感情とともに決定的なものになっていた。
父が自らの手でこの世と別れを告げてから、心の状態がおかしくなり出すまでさほど時間は必要なかった。そして、当時は自分でも気づかないところで随分腹を立てていたと思う。仕事で部下に命令する上司が自分のミスに言い訳をしている姿を見ると、心の中で(とっとと死んでしまえ)とつぶやいたものだ。振り返ってもしょうもない言葉だとは思うが、父の死が許せないまま、そのことに気づかずに悪態をついてのだろう。
ここから獲得した最大の学びは、とことんまで自分を慈しみ、味方になり続ける術の体得だったが、こと父の自死に関しては彼の抱えた世界観への洞察が進んだことも大きかった。
第2次大戦前後の貧しい時代に生を受けた世代は、その頃の物資の不足を背景とする考え方で子供を躾ける家が随分あったように思う。ドラえもんにさえ普通に描かれていて皆に読まれていたのだから、全員とまではいかなくともその考え方への賛同は少なくなかったはずだ。
日本がプラザ合意後、世界最大の債権国になったのは1980年代半ばだが、それよりずっと前の高度成長期を社会人として働いてきた世代は上り調子の社会の空気は知っていても、現在のようなある種良い意味でのルーズさを伴った自由な人の関係も働き方も皮膚感覚として知らなかったと思う。そういってしまうと偏見的に聞こえるかもしれないが、良くも悪くもそういった人々が随分いたのもまた事実だと思う。
それを言い訳にすることはできないが、しかしそんな中で育まれたのが父にとっての世界観であり自分を含む人との接し方を形成してきたのだとするなら、それに対して同じように鈍くて硬直的なモノの見方を受け継いでいる息子の私が、自分とは無関係な生き物を批判するように父を責めることがそのまま自分の一部を無下に攻撃することに他ならないことを身をもって感じている。
ともかく、そういった時代背景をもとに行われた父の躾は、躾けられる側が自らの存在を受け入れられている感覚と並行して行われるからこそ効果があるのだが、後者が抜け落ち、躾とは名ばかりの予測不能で決めごとが守られないまま一方的に子供へダメージを与える行為に堕してしまうケースが多かった。
そして、そんなところばかりをクローズアップしていた時には、親を神様と同列に扱いながら、その神様の行為はひどいものだと天に唾して文句を言い続けたが、あらゆる自分に寄り添い続け、かけがえのなさを認めるにつれて、徐々に人間としての父を感じられるようになったと思う。
私の父は、
気が小さくて
女好きで
神経質で
ええ格好しいで
大上段で
僻み壁が強くて
ヒステリーで
自分の間違いを認められなくて、
精神的に脆くて
自分の妻に母親を求めていて
自分の弱さを受け入れられなくて
そして、それらが自分の一部であることに気づくこともなかった。
・・・。
つまり、今の私のことだ。
私はそんな今の私が好きだ。
誰かに悪いことをしたのならともかく、それらは私が持っている資質だ。その中には多くの人々が当たり前に持っているものもあるかもしれないし、私だけに固有の要素もあるかもしれない。だがそれらは紛れもない私を構成する一部なのだ。批判されようが嘲られようが、私の数多くある素敵な部分とともに大切なたいせつな私の一部なのだ。
気負いも衒いもなく素直にそう受け止められたとき、もう一度、一個の人間である私の父として身近なところへ帰ってきてくれた気がした。あの人なりに与えられた環境の中で精一杯生きたのだ、と。そんな世界観を抱えた中で曲がりなりにも妻と子供に衣食住を提供し続けてくれたことに頭が下がる思いがする。町外れの釣り場に一緒に出かけた記憶はそこにとどまることなく、他のいくつもの場面を愛着の感覚とともに想い起こさせ、それらもまた自分の中に内在化された世界として今も自分を構成し続けてくれている。
もう少しだけ早く気付けていれば、と思い、すぐ、父が他界した頃まで遡って間に合わせるのは無理だったろうなと思い返す。
かわいそうな母親を貶め続けるひどい奴、家族をおっぽり出して家を出て行った卑怯な奴、と一方的に遠ざけたまま、社会人になった後はまともに話すこともなく、眠りについた顔と対面してから20年近い歳月が流れた。死に顔を見た時には(こんな顔だったな)というくらいの感慨しかわかなかった。今は、そこまで苦しんでいたのなら、電話でもかけてきてくれればよかったのに、と、当時の自分を棚に上げて思うことがある。
しかし、時が戻ることはない。もっともっと自分を受け入れ、人を受け入れて生きていけ、というメッセージだと受け取ることにしている。
繰り返しになるが、父から受け継いだ感じ方、考え方、ものの見方、感情、そして彼との間にあった無数の出来事、そういったものに気づき、自分の一部として大切に感じられたとき、私はそれらから解放されて自由になり、父が好きになった、というより父のことが好きだったのだと感じられるようになった。この世に生を授けてくれて、今という自分であることに、幸せだと思う。
この世であくせく生きる息子の心配などせず、どうか安らかに眠ってほしい。
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