サラリーマン、でなくてもいいのですが、
ここでは仮に、
サラリーマン=雇用されて働く人として
話をしてみます。
決して、雇われて働くことは良くない、
という話ではないですよ。
★
このブログでは、たびたび
アディクション=嗜癖と言う用語を
使用しています。
アディクションとは端的に言うと、
快楽を含めたある種の刺激によって、
本来向き合うべき問題から目をそらせる
行為や考え方であり、
その継続によって、
当人や家族の心身の健康を害したり、
人間関係がおかしくなったり、
つまり、
日常生活、あるいは人生そのものが
たちいかなくなるものです。
そういった行為や考え方は
いわゆるホリック=依存症と言われ、
21世紀に入ってからは日本でも、
アルコールや薬物、ギャンブル、信仰、
セックス、借金、食べ吐きなどが
有名になりましたが、
米国の臨床心理士であるリアル氏は、
『自尊心の人工透析に該当するもの
全てアディクションである』
と言っています。
これは、ある症例をもとに述べたものです。
真面目だけが取り柄のサラリーマンである
クライエントが、
週末は死んだように家に引きこもっていて、
相談にやってきた、というところから
話が始まります。
クライアントは週末の間ずっと、
落ち着かないまま、
とまることなく何かを食べながら、
テレビを見続けていたのですが、
ある時、一日だけテレビをつけずに
過ごしたらどうか、
という心理士の提案に、
狂ったように拒否反応を示した、
といいます。
その裏側には母親との哀しい関係が
あったことがその後の話で
徐々に明らかになっていきますが、
その記憶に傷つけられることを怖れて、
クライアントは一人の時間になると
テレビと食べ物で蓋をしていた、
というものでした。
残念ながら、落ち着けず、
楽しむこともできない週末の時間、
クライアントの体はずっと、
記憶の底に横たわった記憶が
見え隠れしていたのではないでしょうか。
おそらくは、ウイークデーの夜も
同じように過ごしていたのでは、と
私は想像しています。
★
仕事、働くことには人それぞれ
意味があると思います。
単純に生活を支えるため、というものから
世間体のため、とか、
何もしないでいると将来が心配というもの、
そこに勤めていることのネームバリュー、
出世を求めること、
あるいは、
その仕事へのやりがいや
将来転職したり起業したりする時の
下準備と言う人もいるでしょう。
その一方で、
私たちは日常生活を営んでいて、
そこには大前提として、
次の順序で大切な快楽を必要としています。
どんな快楽かと言うと、
(1)自分自身の心身の健康という快楽、
(2)家族や友人、同僚など大切な人と
繋がりを感じる快楽、
そして、
(3)達成感、没頭感、楽しさや充実感という快楽。
繰り返しますが、順序が大切です。
- の例では、
起床して朝の光を浴びた時のすがすがしさや
真夜中のひっそりとした静けさに
身を包まれたときの安心感、
森の中に身を置いた時の落ち着きや、
小川のせせらぎを耳にした時の気持ちよさ、
汗ばんだ夏の午後に冷房の効いた部屋で、
あるいは
木枯らしが吹く真冬の午後にこたつの中で
転寝することなどです。
(2)の例では、
親兄弟と交わすよしなし話や、
友人や一緒に出掛けた旅行やスポーツの思い出、
母親の優しさや父親の抱擁感、
食卓を囲んで笑ったこと
恋人と触れ合った時のよろこび、
などがあるでしょう。
(3)の例は、基本的に刺激です。
何かに合格したり、
おいしいものを食べたり、
セックスをしたり、
プレミア品をゲットしたり…。
アディクションは、下位の順序、
つまり、上記(1)から(3)の中で、
番号の大きな範疇にあるものによって、
もっと大切なはずの、
番号の小さな範疇にある記憶を
抑え込んでしまうものです。
そこには、その人なりに
抑え込まざるを得ない心のメカニズムが
働いてしまってもいます。
アディクションが特有の刺激によって、
記憶を封じ込めていられれば
よいのですが、
刺激は慣れによって、
その効力を失っていきます。
先にあげた悪影響、
つまり心身や人間関係が崩れて
日常生活がおかしくなっている頃になると、
最初は曲がりなりにも
快楽であったり、
特に気にも留めていなかったはずの
アディクションが、
いつしか苦痛になっているにもかかわらず、
既にやめられなくなっています。
やめない理由を挙げよと言われて、
とまらないんだ、と言う人もいれば、
もっともらしい理屈をつける人もいますが、
はたして、もっと大切なものを
見失ったり、なくしたりしてまで
続けることなのかと問えば、
さすがに首を縦には振りえません。
昔、誰かが、
『健康のためなら、死んでもいい』
というセリフで笑いを取っていましたが、
上記のようになると、
笑うに笑えませんよね。
★
サラリーマン、というより、今の働き方が
実はそんな一旦になっていないでしょうか。
もちろん快楽だから続けているわけでは
ないでしょう。
しかし、生活のため、と称して、
魂を売り続けながら、
日々の生活の刺激に誤魔化しが
効かなくなってしまっていないでしょうか。
ワーカホリックと言う言葉があります。
今は多少減りましたが、
ブラック企業などでは残業時間無視で
こき使うところがありました。
ですが、今はどちらかというと、
以下のようなところが多いかもしれない。
労働時間自体は守らせる、
でも以前から業務量、ノルマは減らない、
明らかな罵声が減ったけど、
職場の触れ合いもなくなるほど、
世知辛い時間で埋め尽くされている、
どんどん手当や福利厚生が減っている、
目先の仕事に追われ、
夢ややりがいを追う時間が削られている、
朝早く起きて、
満員電車に揺られて、
好きでもない人の中に入って
日々の業務をこなしたり、
何より、そこで働く当人に、
食べていくためと言う以上の
働く動機がない、
…
企業は企業で寿命が短くなり、
しかも昔より圧倒的に競争相手が増えた世界で
生き残るための方法を模索しています。
そこで働く人はと言えば、
労働時間、通勤時間、先の見通し、
自信泥棒、自尊心の欠如などにより、
自分と自分の大切な人々の時間の中で
自分自身が機能しなくなっている。
これはもしかすると、
今の働き方がアディクション化しているのかも
しれません。
労働におけるアディクションとは、
決してワーカホリックのみをさすわけではない、
と言えなくはないでしょうか。
アディクションはそれが蓋をしている世界を見直し、
その世界と折り合いをつけた生き方があること、
それを実現しようとして、
ようやく生きる力が湧いてくることを
知らせてくれます。
どこかにある違和感
どこかにある吐き気
どこかに感じる気色悪さ
そんなものを封じ込めているのであれば、
それが幸せを阻害するなら、
仕事は物理的に体を保持する手段である以外
ほとんど意味をなしていない。
というか有害になっているのかもしれません。
そこまで想いが至ったとするなら、
次に考えることとして、
出て行こう、と思わないことです。
出て行こう、と思っている限り、
そこに留まり続けがちになります。
何をしよう、と問うてみてください。
何ができるだろう、と問うてみてください。
きっと疲れていて、
そんなことまともに考えられない、
と言われるかもしれません。
であるならば、
週末の夜にひっそりとした時間の中で
問うてみてください。
お酒もたばこも薬も甘いメロディも斬新な映像も
何も必要ありません。
静かな時間を用意して、
これまでの自分を振り返ってみてください。
何をしよう、
どう生きよう、
自分は何を求めているんだろう、
ということを、
今の苦しみから逃れるのではなく
仕事に蓋をされて気づいていない何かと
しっかりと向き合うことによって。
心の奥底にある原風景に気づくと、
自分が朧に求めていた世界に気づくと、
そこから新しい時間の流れがはじまります。
そういう意味では、
あなたが求めるものは常に、
あなたの中に描かれていて、
日常の混乱が覆ったヴェールの向こう側に
見つけてもらうのを
待っているのだと思います。
ー今回の表紙画像ー
『月と電車』
時々散策する近所の川べりから撮影。
夕暮れ時になると、川沿いの民家が影絵のように見えて、ちょっと気に入ってます。
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