自分を救う基準

日々の棚卸

私たちが働く社会は

ある暗黙の前提のもとに営まれています。

別の角度から言えば、

結果オーライの社会になっている

とも言えなくもありません。

なので、

結果がオーライにならないとき、

はじめて暗黙の前提を疑う場合が

出てきたりします。

だから、

思い通りの生活が多くの人で

成り立たなくなったバブル崩壊以降、

そんな場合が急激に顕在化してきました。

これは、

労働に対する対価という形で

給与を得る会社員ばかりでなく、

自営業を営む人も

家事・子育てをこなす主婦(夫)も、

変わりないと思います。

実際、

その前提が成り立っていないまま

家事や労働に

従事せざるを得ない人は

少なくなかったりします。

 

本来、働くこととは

傍を楽にすること、と言います。

身近に家族やお客様のような傍が見えない、

家屋にこもってばかりの会社員であれば、

同僚や上司や次工程を助けることで

結果としてお客様に貢献することが

それにあたるのかもしれません。

それとともに、

収入を得て自分や家族の生活を支え、

夢として抱いていた自己実現を求め、

他者ともつながっていく、

それが働くことの意義になる方もいます。

さらには、

そこに思いやりの形を学んで、

それまで理解できなかった

自分を育んでくれた親や大人たちが

抱えていたであろう

迷いやストレスを知り、

そこから壁に当たっていた自分にとっての

新しい道を開拓することだって

あるかもしれません。

 

ここまで述べたことが、

どこまで実現されているか

どこまで考えられているか

はともかく、

暗黙の前提では、

人はそんな理想のもとに、

日々を生きている、ことになっています。

あるいは、

そんな硬っ苦しいことなんて考えずに

それなりに暮らしていければいいや、と

気楽になるように

そこそこの日々を

過ごしていることになっています。

 

暗黙の前提。

暗黙という言葉の通り、

前提が人の意識の遡上にダイレクトに

上るわけではありません。

ですが、

その感覚を、言葉にすることはできます。

 

『思い込めている』こと、です。

 

何を『思い込めている』のか。

 

それは、自分が

十分助かっていること

です。

ピンとこなければ

救われていること、でもいい。

本当は、

満たされていること、

と言いたいのだけれど、

この言葉にしてしまうと

うまく理解できない場合があるので、

あえて別の言葉を使いました。

 

自分が

『救われている』と

思い込んでいること。

どういうことでしょうか。

 

頭の中では誰もが、

世の中そうそう

自分の思い通りにはいかない

ということを理解しています。

おそらく…。

 

ですが、そんな世の中に生きていて、

思い通りにいかないことは

ままあることで、

それが重なると私たちはつい、

どこかおかしいのではないか、

根本的な間違いをしているのではないか、

もしかして私の存在自体が問題なのでは、

と、

自分の価値を

疑うようになってしまいます。

そんな状態に長く耐えられる人は多くなく、

やがて、

何かに、

誰かに、

騙されているのではないか、

欺かれているのではないか

何かが間違っているのではないか

と、

周囲を疑うようになります。

もちろんそれで、

何かがよい方向に変わるわけではない。

周囲に放った疑念の放射能は、

壁や空気や人や出来事にあたって

解釈として跳ね返ってきて

そのまま自分を無力感で包み、

何かをあきらめるようになります。

そして、ゆっくりと弱っていきます。

 

自分は、何をどう生きたところで

救われてなんていないのだ、と。

こんな自分が救われるはずはないのだ、と。

 

そうやって、

自分の中にあったはずの大切な想いが

消えていき、

変わってそこに、

悲嘆が住み着くようになります。

誰か、助けてほしい。

誰か、救ってほしい。

被害者の

犠牲者の

悲劇の

この私に力を…。

 

ここまで来る人なんてめったにいないと

思われるかもしれませんが、

そんなことはありません。

自分か他者か世の中を疑うことは

ともすれば、

私たちが日常の中で

良く陥りがちな感覚ではないでしょうか。

こんなあからさまな表現が各人の中で

言葉になっていないだけで、

感覚としてはしっかり根付いてしまって

いたりするものです。

 

映画やドラマなら、

ここから救われるためのストーリーが

展開されたりするわけだけど、

残念ながら

それを現実に期待することは難しい。

ここから先は、ここに来た自分しか

対処できる人はいません。

 

ヨーロッパ(古代ギリシャからイギリスまで)

には、

『食べるために生きるな、

生きるために食べよ』

という言葉があります。

意味を理解できない人もいれば、

かつてはそうして生きていたはずなのに

人生に起こった様々な出来事のために

出来なくなってしまったり、

その方策を見失ってしまった方もいます。

いずれにしても、

『救われている』と思い込めていないことを

自覚できるのなら、

働きながら、

そんなことにも焦点をあてて、

自分を慈しみ、

鍛え、

受けれいることを続けていきましょう。

救いを求める自分になるまでの説明は

ともすれば極端に感じられたかもしれません。

しかし、決して大げさなどではなく、

誰しもにそういった部分があると思うのです。

 

ほんとは、皆、救われているのだと思います。

「私ほど、悲惨な人生歩んできた経験なんて

ないでしょ」

「俺ほど、惨めな人生生きてきた経験なんて

ないだろ」

そう思われる方、いらっしゃるでしょう。

確かに、私が生きて生きて味わった経験では、

皆さんの苦痛を全く同じように理解することは

できないかもしれません。

 

でも、もう一度言わせてください。

今ここで、こうやって生きている。

生きるに足るものはそろっている。

奪われるのは、

高望のを実現に対する力の不足分だけ。

 

そう理解できれば、やっぱり皆が

救われていると思うのです。

 

ー今回の表紙画像ー

『あじさい』

この時期はどこへ行っても紫陽花が満開。