怒りや恨みに苛まれていた人が
その感情を他者に向けるのではなく、
自分の中にある混乱として理解し、
それこそが今の自分を自分たらしめている、
つまり苦しめている、
悩ませている、
ということに気づくことは、
大変大きな変化です。
できる人からすれば、
たかだかそんなこと、なのかもしれません。
私はそこまで行くのに
随分時間がかかってしまった。。。
ともかくも、
その感情を募らせた相手が
苦しむのではなく、
その、とっても暗い炎によって
自分の心身を痛めつけていることは
大昔から宗教でも道徳でも
説かれていることで、
そこに理解が進むことによって
次のステップ=新しい世界が
自然に開けてくるようになります。
この苦しみは、
この悩みは、
どうしたらなくなるのか、
どうしたら減らせるのか、
どうしたら解決するのか。
どう解釈すればよいのか。
そもそも本質は何なのだ、
こう考えることで、
焦点の位置が変わるという意味で
一歩前進することなのですが
今度はその場所で、
何も悩みがなくなって、
ただただすがすがしいばかり、
というわけではなく、
新しい壁が登場して、
悶々と苦しむ人も出てきます。
どう考えても解決策が浮かばず、
ヒントでもいいから誰か教えてくれ、
ほんとにわからないんだ、と
祈りにも似た気持ちで頭をひねり、
腹に力を籠め、
意志の力を総動員して、
気合を入れて、
何とか解を導こうと躍起になります。
私の場合も、そんな時期が
しばらく続いたことを
昨日のことのように覚えています。
ちなみに余談ですが、
この期間、つまり解を得ようと
躍起になっているこの時間は、
決して無駄にはなりません。
ですからその時の気持ちを
変に誤魔化すことなく、
正面から取り組んでみてください。
私たちデジタル社会に生きる者は、
ポンと問題が出た、
これをこうしてこう考えて
こう反転してこの定理で導くとこうなる、
という理路整然としてスカッとするような
解を期待しがちです。
しかし、苦しみとか悩みは、
その生き方、発想、世界観の故に
もたらされたということに、
まず気づく必要があって、
それは、
出てきた問題に対処する、という前に、
その問題を問題として生じさせている
淵源となってもいるわけですね。
問題は、自分個人で閉じて生じることは
まずありえません。
問題は、人の関係の中で起こるもので、
それが家庭内か、職場か、学校か
近隣の関係か公共の場か、
が事なるだけです。
少し迂回しますが、
それ、つまり問題が自分個人で閉じて起こる
ものではないことを
端的に説明することができるのは
自分とはどこまでを指すのか、
という問いへの答えにあります。
自分の体の中に住む細菌は自分の一部か、
というのは問いの一つですね。
あるいは、
以前にもお話ししましたが、
杖を突いて歩く盲目の人にとって
『自分』とはどこまでを指すのか。
杖を握る手まで?
杖と地面の接点?
地面の質まで?
これを線引きするということには
実はたいした意味がない、というのは
『精神の生態学』の中で
米国の有名な精神医学者である
グレゴリーベイトソンも
述べていることで、
私に生じることとは、
系全体を通して現れることであって、
裏を返せばその事象によって、
『自分』の範囲、境界線は変わる
だからそういう意味での線引きは意味がない
ということです。
問題が自分個人で閉じて起こることは
まずないというのはそういう意味です。
世界は自分の一部。
自分もまた世界の一部。
さて、悩み苦しみを扱う機関、
例えば、カウンセリングルームや医療機関、
人によってはある種の宗教教育の場に行くと、
健康な人は、
回復した人は、
自分を取り戻した人は、
こうこうこういう状態にあるものなのです、
こういう行動に出るはず、
こういう考え方になるのです・・・・・
そんな話を聞くことがあります。
皆頭ではすぐに理解するんですよね。
苦しいんだから。
でも、それができないから困ってる。
だから、どうしたらいいんですか?
そう聞くと、自分で考えろ、と
言われることがあります。
私がそう言われたときは…途方に暮れました。
それが知りたくてここにきているのに…と。
いろいろ試してみるしかない、
というある種の提案でもあるのだろうけれど。
時には経験がなくて
うまく答えられないことをカモフラージュする
カウンセラーや医者もいます。
答えがうやむやで、
説明もしどろもどろだったり。
少しばかり彼らの味方をすると
肉親の自死経験が二人もあって
家族もばらばらになって、
生き残った親は壊れていて、
なんて経験を持つクライアント(患者)が
刑務所や入院先ではなく、
一般社会から乗り込んでくることなど
想定していなかったのかもしれません。
軽くあしらえればいいけれど、
当時の私はといえば、
おかしなこと言ったらただじゃおかんぞ
的な雰囲気を漂わせていたので、
彼らも扱いに困ったのかもしれませんね。
私が、答える側、堪えられる側の
双方の立場を経験し、
また実際にお答えさせていただいた方々の
状況を振り返って感じることは、
提案する側の答えは
そのものずばりである必要は
ないということです。
カウンセラーが全ての事情を
事細かに知るのは難しいです。
大切なことは、生じた問題について
相談される人にしっかりと寄り添い、
状況の全体像を明確にすること
方向性を指し示すこと、
その時持つべき心もち、
それらが解答の中に含まれていることが
何より大切だということです。
私は毎回のように、
自分を受け入れることとその作用、
そこから構築した方がよいと考える
新しい生き方・働き方について
提案をさせてもらっています。
それは時代に関係なく体得しておくことで、
生活を守るという意味でも、
自分が生き生きと生きていく上でも、
大切な人を守る上でも必要だと
考えています。
反省になってしまいますが、
そういった発信がとても曖昧な提案として
受け止められてしまうことがあって、
自分の力のなさに落ち込んだりします。
自戒、ですね。
ー今回の表紙画像ー
『川沿いの公園より』
まだ赤い葉っぱがたくさん残っています。
12月っていつからこんなに暖かくなったんだろう。。。
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