身体と心が健康だと、
そうでない場合に比べて、
自分らしく、楽しく、幸せに生きられる、
…ような気がします。
体と心に恒常的に元気がなくて
魂がへたり込んだままの状態では
なかなか幸せとか楽しさは感じられない、
…ような気がします。
…ような気がするのは確かなのですが、
何かそれだけではないような気もしています。
★
私などもその一人なのですが、
普段運動の習慣がある人の場合、
その運動に見合った健康が身につきます。
マッチョに鍛えなくても、
例えば筋トレなら、
スクワットや腕立て、鉄アレイ、
フィットネスでのトレーニングマシンなど、
継続的に行うことで、筋力が増強します。
無茶をせずに足腰が鍛えられれば、
日常生活の中で体を傷めるリスクを
軽減できるはずです。
もちろん個人差はあるでしょうし、
やり方を間違えると逆効果にもなりえますが、
実施した人の肉体が鍛えられることは
まちがいないとおもいます。
あるいは、定期的にジョギング、
フットサルやバスケットボールをする人は、
心肺機能が高められる上に、
瞬発力や判断力も磨かれるかもしれません。
山登りやヨット、水泳など、
他にも様々なスポーツやイベントを通して、
目的を達する方法が思いつきます。
では、心の方はどうでしょう。
米国ではディベートという授業があって、
ある一つのテーマの是非について主張し合い、
論理性の能力を磨きます。
議論をし終えたら、今度は
是の立場と非の立場を入れ替えてまた、
主張をぶつけ合う、
そうやって論理の組み立て方、主張の仕方を
学んでいきます。
この時、相手の主張はこちらの論理の非を
ついてきます。
あくまで論理の妥当性を議論するのですが、
そこには自己肯定感を削られる感覚が
どうしても付きまといます。
同じことは、例えば研究テーマにおける
仮説の提唱にも言えます。
この時、自分という存在への確信が
試されます。
研究の場合は、仮説を提唱し、
仮説に対する検証が行われることで
その確からしさを示すフェーズがありますが、
その前に検証する価値があるか、
そのテーマ自体は妥当なのか、
そもそも成立するテーマなのか、など
様々な角度から妥当性が議論されます。
これが政治の議論になるともっとややこしい。
いずれにしても、ある主張、意見を表現すると、
そこに対する批判、批評が発生するわけです。
それらの批判、批評は、あくまで
主張や意見に対してなされたはずなのですが、
その言い方、言い回し、表現方法、態度などが
あたかも自分の存在意義そのものを問うている
と感じられることもあります。
これらが当たり前の環境で働いている人は、
ある種のマインドがとても鍛えられます。
そういう人は、
ちょっとやそっとの批判、否定では、
自信が揺らぐことはありません。
そうやって得られたものを
自尊心と表現することがあります。
自尊心を獲得するまでには
並々ならない努力の積み重ねがあったり、
中には普通では考えられないような
障害を乗り越えてきたり、
大切な人々のためと信じて
自分を犠牲にすることを厭わずに
痛みをこらえ続けてきたり、
そうやってあるゴールを達成したときに
自分を受け入れて得られる自尊心。
自分が一回り大きくなったような、
存在の確からしさが増したような、
自分が世の中に受け入れられたような、
そんな感覚を持つことで、
自信がつくと思われています。
…。
ここまで読まれた方は、
きっと微妙な違和感を持たれたのでは
ないでしょうか。
嘘ではないのだけれど、
鍛える意味というか、結果が、
何だか浅く感じる、ずれて感じる、
…ような気がする、
というところではないでしょうか。
健康や成功のために心身を鍛えるのは、
もちろん悪いことではないのは、
実施するのが面倒くさいかどうかは別として、
否定する人はいないはず。
ではこの違和感の正体は何なのでしょう。
★
私たちが持つ自尊の感情は、ともすれば、
自分が社会的に達成してきたことのみに
依拠しがちです。
ボクは、ワタシは、
こんなことができるようになったんだ、
こんなことを得られたんだ、
こう優れて見られるようになったんだ、
そういった、
誰からのものかはわかりませんが
高い評価を得たことによって
自分は素晴らしい、
自分は凄い、
自分は素敵だ、
という“条件付きの”自尊心を獲得します。
“条件付き”というだけあって、
条件の外側に出た時や、
条件を弾き飛ばす出来事の前では、
とても脆いのも事実。
そうなると、
まるでそれまでの状態が嘘のように
自尊の感情は見失われ、自尊の機能が
働かなくなります。
体の軋み、
心の痛み、
魂が彷徨う理由がわからず、
“その意味での”自尊どころでは
なくなってしまう。
なぜなら、そこで自尊と考えていたものの
もう一つ土台にある、
存在すること、感じること、生きること
そのものの自尊の感覚を
失っているからです。
糧を得ること、
誰かと共に暮らしていくことを
歓びとともに続けるためには、
自分と相手ともう一人の誰かのために、
自尊の感情が必要ですが、
元来それは、とてもベーシックというか、
素朴なものです。
つまり、世の中の評価や
自分の見られ方とは全く次元の異なる、
自分の存在のありがたさのようなもの。
ある瞬間に自分が存在している
ありがたさ、うれしさの
意識、感覚を感じること、
その一瞬一瞬を大切に蓄積した自分を
慈しみ、守り、共に生き“きる”と
誓うこと、実践すること、
その意味での自尊心のもとに初めて、
鍛えることの本当の強さ、安定が
得られると思うのです。
仕事や人の関係で日々、
軋轢を感じる中で実践するのは
なかなか大変ですが、
自分を取り戻し、自分を生きるための
根本的な指針になりはしないでしょうか。
今あると思い込んでいる、
いえ、今失ったと思っている、
その自尊心のもう一つ根元に、
あなたが獲得すべき、
いえ、思い出すべき
あなたのための自尊心が隠れている、
それが真実だと思います。
ー今回の表紙画像ー
『夕空』
夕空だけというわけではないけれど、ちょっと面白い雲の形があって、橙から闇に落ちていく間際の時間の空にとても惹かれます。
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