自己治療のこと

日々の棚卸

抱える問題があまりに大きすぎて

真正面から向き合えないとき、

私たちはアディクションに陥る

ことがあります。

アディクションは嗜癖とも呼ばれ、

何らかの依存を伴う行為です。

 

アディクションに陥るような場合、

抱える問題の本質を、

明確に認識できていないことが多くて、

目の前にある別の問題と思えることと

すり替えてしまっていたりします。

光の当たっている場所で問題を探している

ということですね。

 

で、すり替えてしまっているものだから、

その問題自体が仮に解決しても、

すぐ別の何かが問題として認識されて

感情を害するような、

混乱とも焦燥感を催すような

次の問題が目の前に登場する

これが繰り返されることになります。

厄介ですね。

厄介ですね、とさらりと言うには、

とても根が深い思い込みが絡んでいるので、

簡単には気づかないものではあるのですが。

 

アディクションについて最初に知ったのは、

アルコール依存症の治療を例に取り上げて

解説した本を手に取った、

社会人になりたての頃のことでした。

私たちが陥りがちな

意志の力で自分を制御できるという勘違いと

制御を失敗しては湧き上がる感情が

行き着いた先の言動と日常とを

デフォルメして表現している、

とても簡単に言うと、そういうことです。

私の原家族には、

アルコールの問題はありませんでしたが、

問題はアディクションの種類ではなく、

そのメカニズム・関係性で

それが家族一人一人に

見事に当てはまっているように見えた、

そう認識して、愕然としたものです。

四半世紀以上前のことです。

 

それ以来、

怒りや悲しみの感情に溺れた自分とは別に、

アディクションというキーワードをもとに

客観的に自分と家族を見つめる目が

常にどこかにあったように思います。

 

同時に同じ目で、

自分の周囲の

何だか苦しそうに生きてるように見える人、

いつも人と衝突していたり、

いつもふさぎ込んでいたり、

いつも怒りっぽかったり、

生活がなぜかカツカツだったり、

苛立ちながら尊大にふるまっていたり、

あまりに容姿を気にしていたり、

そういった人たちを観察しながら、

同じ概念をあてはめていくと、

もちろんその人たちの私生活まで

わかった場合ではありますが、

何となくそうなる理由が納得できた

ように思えました。

 

その理解、というか直感は、

どうも間違っていなかったようで、

その後、様々な心理療法、精神医療のことを

学ぶにつれ、

自分のことをも含めて、

いくつものケースでその理屈が成り立つ

場面を見てきました。

 

アディクションは依存症と置き換えても

話が通じると思います。

依存症自体は、

十分世の中に広まった言葉と概念ですが、

その意味合いをきちんと語っている場が

少ないように思います。

依存症は、昔は中毒と呼ばれていました。

アルコール中毒、薬物中毒といった具合。

依存症という症状が、

主に物質を体に取り入れる、

取り込み型をメインに考えられていた

頃のことです。

中毒という言葉にすると、

なんか凄いイメージがしますね。

自分ではどうしようもない病気で、

ウイルスに汚染されるように

避けがたく罹ってしまう、みたいな。

 

中毒が依存症という表現に変わったのが、

そのイメージの間違いというか

不十分さによるものかはわかりません。

ただ、そこに含まれる

無意識の能動性のような部分は、

依存という言葉を使用した方が

妥当であるとは思います。

 

人は無駄なことはしない。

私が心を扱ううえでの前提です。

その人がどこまで意識しているかはともかく、

そこには、

つまり依存症になっていることについては、

もう一つ別の意味があります。

 

それは、

当人がそうなってしまう原因となった出来事と

その結果抱えた心の痛みを、

何とか克服しようとする当人なりの

『自己治療』の意味合いがあるということです。

先程は、無意識の能動性という表現を用いて

その行為を当人が選択したことを示しました。

『自己治療』には、前述のとおり、

現在では病気と捉えられるような

大きなものから、

日常の中で陥っている些細な行為や発想まで

様々なものがあります。

『自己治療』とはどんなことか、

アルコールや薬物のような、

極端な症例を離れて、

日常に溶け込みやすい、

一見ライトな2つの例を示します。

アディクション、依存症とは、

それがないと日常が回っていかない、

下手をすると生きていけないほど、

自分の心身がとらわれている状況を

示しますが、

そこまでいかなくても、

何となしの生きづらさや、行き詰まり感を

演出するもとになっていることもあります。

 

■例1:テレビ

テレビ鑑賞が依存症なのではありませんよ。

念のため。

仕事帰りから寝るまで、

あるいは休日の日がな一日、

何が見たいわけでもなく、

見ていて楽しいわけでもなく、

むしろ見ていながら

心のどこかで、

落ち着かなさ、

イライラ、

不安、

そういった感情のノイズがあって

それらをかき消す手段として

ほとんど習慣的にテレビを見ていることは

あったりします。

本当は対峙する必要がある問題を否認して、

貴重な時間を費やしているわけです。

ですが、テレビを見ている間だけは

問題に直面して

“当面の”感情と日常生活を壊さずに

すみます。

その時々の感情を麻痺させながら

本質的な問題を先送りするうち、

徐々に心身を蝕んでいきます。

 

■例2:蔑み

何か問題が起こると、

すぐ自分のせいだと責め始めます。

厄介なのは、

自分のせいだと純粋に反省して、

次からそうならないようにしよう、

とはならずに、

自分を蔑むことです。

厄介だといったのは、

自分の蔑みが、

どこかで自分を蔑ませる羽目になった

誰かに対する怒りにもつながっていることで、

そこには、

被害者としての自分という

隠れ家、逃げ場としての

心の中の自分の位置を確保していたりします。

本質的に、問題が起こった時の自分は

常に被害者と位置付けているので、

自分を受け入れる心と

自分で動いて解決していく

という

かけがえのない自分を生きるための術を

学ぶ機会と

今の自分でも大丈夫という自信と

を得られず、

無力な子供のままでいます。

 

自己治療するということは、

その根っこに治療が必要と本人が感じている

苦痛の感情が横たわっていて、

それを認識できていない、

というより無意識が認識を拒んでいることが

多いものです。

 

例え自分にとって害があることであっても

これをやらないと身が、心がもたない

だからそうしているのに、

好きだからやっている、

とすり替えることもあります。

 

それで日常が問題なければいいのだけど、

問題があって苦しいから、

このページも見ているんですよね?

 

自己治療と書いた通り、

我流ながら、

治療が必要と当人の無意識が判断して

心のモルヒネを求めている。

治療かもしれないけれど、

処方自体を勘違いしているから、

短期的な効き目の確保を行ううち、

長期的に取り返しのつかない時間を

生み出してしまっている。

 

自己治療。

その概念を知ること。

そして、自己治療しているんだ、

そういう行いにはまってしまうことがあること。

それを自らに問いかけてみてください。

 

人の関係やお金の巡り、体調、未来、

そういったところにほころびを感じ、

それを他責にしているなら、

一度振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『近所の紫陽花 6分咲き』