自分の過去を切り捨てるな!

日々の棚卸

 

今日は、時間を超えて悪影響を与え続ける過去と付き合う話。

 

これを読まれているあなたは今、何歳だろう。どこで、何をしていて、暮らし向きはどうで、どんな人間関係を持ち、どのくらい不満があるだろうか。未来への希望はあるだろうか。気持ちを色で表せば何色だろうか。恋をしているだろうか。美しい風景を見ているだろうか。自分を大切に扱っているだろうか・・・。

 

日々の些細な出来事に感じる小さな感情から自分が描く世界像まで、私たちはこれまでに心身が吸収し蓄積した知覚的な情報をもとに生きている。ていうか、それ以外基準などありようがない。つまり、客観的に生きようという人も含めて、その人自身の主観性に基づいて生きているわけだ。

ある一つの素敵な体験がその前後で我が身に起こった悲しい体験を小さなものにしてしまうこともあれば、その逆もある。前者の例は恋愛の初期にはよくあるし、後者に至っては大勢の人がそこかしこでのたまっている。

ある時から後者がメインの人生を送ってきてこんなブログを書いている。そして、今はそんな人生にも感謝できるようになった。そのくらい、学びたかったことを学んだのだ、と思う。体得することで、自分を認め、その延長で大切な人々をも幸せにできればと希望を持っていたのかもしれない。

 

誰しもこんな人生ではなかったという部分はあるだろうが、それが生きることに対してあるレベルを超える苦痛を感じるようになると、その場の対処では済まなくなる。
両親の衝突、伴侶とのすれ違い、子供の孤立、上司の叱責、収入の低下から駅で見かけた見知らぬ第三者間の口論まで、その時間が過ぎたあとで自分の中にわだかまりがのこらないのなら特に問題はない。これが、両親の憎しみ合い、伴侶の裏切り、子供の引きこもり、上司のパワハラやセクハラ、生活が成り立たない収入、第三者間の殴り合いの目撃だったとしても、それが自分の生活の中で感情的に尾を引かないのであれば、やはり問題にはならない。

過去を原因として振り返る必要があるケースとは目の前の問題の大小や種類ではなく、今のその耐えがたい苦痛をどのくらいの間引きずっているか、だ。厄介のは、苦痛は原因を直接的に伝えてこない場合がままあることだ。

まだ自分が抱えていた混乱に対処する術を知らない頃の古い話だが、とある相互自助会で年配の女性から感情をぶつけられて頭が真っ白になったことがある。
当時暮らしていた町の公民館で行われていた会合で、お金がかからず、時間の都合も付いたので結構まめに通っていた。
その日はいつもより参加者が少ない5人程度のこじんまりとした場となった。話したい人が状況をシェアする中に新顔の50代と思しき女性がいて、大学生の息子の引きこもりについて語った。
シェアの後、希望者はそこで互いに語ったことを議論するのが通例で、その日も最後の一人が語り終えると自然にその流れになった。そして、新顔の女性のシェアについて皆で話をする番になった。
この場の良いところは、同じ経験をする者同士からの励ましの言葉や、異なる立場の人たちからの理解によって、勇気づけられる可能性が期待できるところだ。しかし、お察しの通り、それを上回る危険性が半ば見え隠れするところでもあり、今の自分であればそんな場に出向くことはない。
ともかく、女性のシェアに対して、こうしたらどうだろう、それはこういう解釈ではないか、息子さんはね、などと意見が出た。今よりずっと若かった頃の私もそうやって意見を述べていたところで、女性が突然、「私の全てをわかっているわけではない!(お前に何がわかるんだ、という口調)」と私の方を向いて怒鳴った。そして、「えっ」と驚く私をよそに、ワッと後ろを向いて泣き出した。私はと言えば頭が真っ白になり、しばらく何も言うこともその場を動くこともできなかった。余程失礼なことを言ったのだろうかと、後からそこにいた他の方々に聞いて回ったのだが、「そんなこと言ってないよ」と皆が慰めてくれた。公民館を出て歩くうち、頭が冷えてくるとともに胸の中に激情が湧いてきて、それは何か月もそこに居座り続けた。
湧き上がった感情は、怒りと罪悪感だ。たった1度会っただけの他人からぶつけられた態度がいつまでも胸の中にわだかまりとして居残っているのが不思議だった。
今ならその意味は容易にわかるし、そのことで狼狽することもない。再度そんな状況になったら、「では、黙るようにいたします。失礼しました」といって、場合によってはさっさとその場を立ち去ったと思う。もっとも、先に述べたようにそのような場に出向jくことはないだろう。
同様に、今ならその女性の状態もある程度予測はつく(これはカウンセリングしてみないとわからない部分もあるが)し、ずっと後になってそんな相談を受けたこともある。

原家族の中で父母の泥仕合は毎日続いていて、私は母の味方をしながら父を憎み続けていた。この男が家族の不和の元凶だ、こいつは金を持ってくるだけの悪魔だ、と今からすれば何とも偏った思い込みだった。母は夫(父)が自分にどんなひどい言葉を吐き、夜の生活ではどんあことを要求し、などと言うことまで話をして聞かせ、私の前でよく泣いた。子供ながらに母がかわいそうだ、と感じ、父母の対立のたび、常に母の側についた。私が学生になって家を出た後も何かと電話をかけてきては同じことが繰り返された。私が電話に出ないでいると、私に対する呪詛の言葉が留守電に残り、これ以上聞きたくないと強制的に電話を切ったときには真夜中であったにもかかわらず繰り返し電話をかけてきた。その時は、それ以上聞くに堪えなくなって最後はこちらが電話線を引っこ抜いた。それほど、憎しみと恨みの言葉が際限なく母の口からついて出続けていたのだ。男とは、自分とは、そういう生き物なのか、というやりきれない感情が私の皮膚感覚にずっと染み込み続けた。
社会に出て後、精神医療や心理のことを学ぶにつれ、母もまたおかしいことに気づいたことが疎遠になるきっかけだった。公民館に足を向けたのも同じ時期だ。
その女性は、彼女をその時の状況に追い込んでいると彼女自身が感じている相手を私に重ねたのだろう。実際には彼女の中のもう一人の彼女こそが自身を追い詰める犯人だということは、まだ微塵も感じていなかったと思う。同じように、私の中に沸き上がった怒りと罪悪感もまた、自分の母に対するそれが思い起こされる出来事をきっかけにむくむくと首をもたげてきたのだ。振り返ると、私が自身を取り戻すプロセスは母との関係の見直しに終始したと言っても過言ではない。

私はかなり早くから母との間に距離を置いた。だが、自分の中で繰り返し襲ってくる罪悪感をはっきりと意識し、自分の中で霧散するまでにはずいぶん時間がかかった。物理的な距離をとって知識を吸収するとともに自分としっかり対峙し、自分を受け止め、自分のかけがえのなさを自然に感じられるようになってようやく、母と再会することができた。その母も他界してしまったが、何とか間に合ったのではないかと思う。再会の前、最後に会ったときは互いに荒んでいたが、再会したとき少なくとも私は自分自身として会っていることを確信できていた。その後、会うたびに母は少しずつ体を弱らせていき、私は少しずつ自分を回復し続けた。

 

今を幸せに生きている人が、素敵な過去ばかりだったわけではない。
だが、過去を切り捨てた人に素敵な今はない
素敵そうに見えても、内情は精神的な酩酊を求めざるを得ないほどに不安定だ。

なかったことにできるものなどないのだ。

遠ざけ、見ないようにし、終わったこととしていた時間が、あなたを追いかけ続ける。それが目の前に様々な形であたかも「今の問題」であるかのようにしてあらわれているだけだ。

そのことに気づいていない人、気づいていても認めようとしない人が、問題の出自を勘違いしたまま自分以外の誰かへ問題を投影して、

・あなたのためと言いながら救いを求め
・主張という名の怒りをぶちまけ
・被害者の立場に居ついたまま憎み続け

“代償”行為で仮初の解決を試みようとする

 

自分を責め続けるのも同じ理屈だ。そうやって、おおもとにある自分自身を貶め続けている。
悪影響は、投影の対象にされたり、傍でその行為を見せつけられるあなたの大切な人にこそ大きく及ぶ。

起こった出来事と私たちの体に記憶された感覚には隔たりがある。実際に経験したことと、苦痛の大きさの間には相違がある、と言ってもいい。そして、
「誰が何と言おうと絶対に私が言う通りだ」
という人ほど、乖離が大きい。

違う。

必要なことはその時の自分に立ち戻り、自分自身を勇気づけることだ。

今の私たちを構成しているのは、私たちの過去だ。そして、この過去をどう受け止め、どう活かし、どう生きていくかが、未来を決める。
切り捨てたはずの過去と向き合うのは、体が震え出すほどつらいことかもしれない。
だから、対面することを意識的・無意識的に避けて、原因をすり替える。
だが、これをしている限り、問題は形を変えて繰り返し目の前にあらわれる。

つらいことなら、寄り添おう
哀しいなら、一緒に泣こう
腹が立つなら、一番自分に効果的な対処をしよう

人生は、与えられたもので生きることだ。

それが自分の人生を背負うということだ。

それでも足りないものは、自分と二人三脚で仲良く生きていけば、やがて与えられる。
なんと逆説的なんだろうというほどに。
人も、場所も、お金も、あなたが生きたように、そこに登場する。

人生は短い。

過去を切り捨て、感情の上澄みをすすっているうちに、終わってしまう。

怖さ、哀しさ、醜さ、弱さ、皆私たち自身の一部だ。その根深さ、沁みつき度合いは人それぞれで、きっと数多くのドラマがあったのだろう。人に言ってもわかってもらえない、と半ばあきらめながら、自分に寄り添うことまであきらめてしまってはいけない。それを受け入れ、統合することがあなたらしさであり、かけがえのなさだ。そんなものは汚いだけだ、と切り捨てた時、あなたは永遠にあなた自身を、あなたの世界を失う。

・・・そもそも。切り捨てるなんてできないんだけどね。

過去は自らに統合するのだ。
今できなくても、そう覚えておいてほしい。
切り捨ててよいものなど、何もない。
さまよっているなら、きちんと立ち止まって振り返れ。