影の変遷2

日々の棚卸

 

『影の世界』に

住み着いた頃のことを書いたのは

5年ほど前のことです。

 

出来事自体は、四半世紀以上前の話です。

 

読み返してみると、

言葉にするのは、バツが悪いものだ、

と書いていて、それは今も変わりません。

 

ただ、追い詰められて、生きづらくて

どうしようもない状態を、

そうやってしのいだという意味では、

 

先にも書いた通りバツは悪いですが、

もう少し触れておきたい話です。

 

いっときよく流れていたコマーシャルで

人は皆合わせ鏡だ、という歌が

流れていたことがあります。

 

目の前に現れる人々、その言動の感じ方は

全てあなたの内面と繋がっている、

という意味だったような。

 

あれは何でしたっけ?

 

ともかく、似たような表現は他にも

いろいろあると思いますが、

他者はあなたの鏡だ、という点では

一致しています。

 

その通りなのかもしれません。

 

あなたの目の前の人に対して

あなたが感じることは

私たちの内面をうつしている。

 

多分、他者、ではなくて、

他者を含めたこの世のあらゆる存在、

なのかなとも感じます。

 

 

ご存知の方はご存知のように、

精神医療、カウンセリングには

認知行動療法という有名な治療法があります。

 

端的に言うと、

 

明らかに現実的とは言い難い思い込みや

深く偏って成立しえない理屈に支配された

クライアントの認知を修正して、

生きづらさを解消することに使われます。

 

ただ、この治療法に限りませんが、

ただクライアントに処方すればよい、

というものではありません。

 

例えば、この頃=四半世紀前の

私のような者からすれば、

きっと受け付けられなかったと思います。

 

なぜなら、そこには安心と安全が

感じられなかったから。

 

私の場合は、原家族の形が消えたことが

きっかけでしたが、

 

愚かな自分、醜い自分、役立たずの自分と

勝手に自分を追い込みながら、

日々呼吸することにさえ苦労し、

 

どこにも繋がることができないまま、

実体のない何かに怯え、

誰とも繋がっている感じを持てないとき、

 

人は安心安全とは正反対の世界にいます。

 

私の場合、例え仮初であっても

それを感じさせる何かの一つである

『影の世界』に逃げ込みました。

 

逃げ込んだと表現するのはとても哀しいし、

当時の追い詰められた自分に対して

酷な表現なのかもしれません。

 

ただ、理由はどうあれ、

そこに逃げ込んだのは確かです。

 

5年前のブログでは、

「『影の世界』に住み着いていた頃、

色も時間も自分を取り巻く形も存在も、

何もかもが影に同化していた」と

書いています。

 

ずっと昔のことなのに今も鮮明に

思い出すことができるのは、

その世界を自分の大切な一部として

認識し、統合することができているからです。

 

鬱に沈んでいた状態で、

社会にキャッチアップするのは

至難の業ですが、

 

当時の私は鬱に最も近い状態だったと思います。

 

なにせ

 

「夜が近づくと体が動くようになり、

明け方にほんの少し眠って

会社に行った。」という毎日を

繰り返している状態だったのですから。

 

そして、

 

「習慣のジョギングも、夜遅い時間に走ると、

暗がりの影から何かが自分を見ているような

気がしていたし、

 

街路灯から離れて光が当たらない

道路標識の影にさえ

怯えることがあ」ったのですから。

 

これは形を変えた鬱病ですね、

というのは容易いですが、

 

重要なことは、その時に感じていたことが

持っている意味ではないかと

自らを振り返って切に思うのです。

 

心理カウンセリングを受けたり、

自身がカウンセラーとなる学習を経て、

 

自分とのつながり、大切な人々とのつながりが

再構築され、日々が回り出す中で、

『影の世界』にいる感じが薄らいでいきました。

 

振り返ってこう感じています。

 

「あの影はあの頃、私そのものだった。

私の唯一の理解者だったと言ってもいい。

 

何もしゃべらず、表情も浮かべず、

まるで分身のようにいつもそばに

いてくれた。

 

そして、夜が終わると自然に姿を消し、

また夜が来ると

約束してなくても会うことができた。

 

恢復したと霧が晴れたような

感覚になった頃から、

 

夜ジョギングした後や、

飲み会の帰りに公園を通って目にする

それらは、ただの暗がりになっていた。」

 

先日、友人たちと集まって飲んだ帰り道、

久々に“彼ら”を意識しました。

 

交通標識の形、

大木の葉の揺れ、

草むらの奥、

ベンチの裏、

 

そこかしこに佇んでいた影たちが

久々に感じられたのです。

 

それは昔感じた、

こちらを敵視するような攻撃性を

持った存在ではなく、

 

どこかで自分と繋がっているようでした。

 

そうなんだな、と思いました。

 

自分の前にあらわれる人は

みんな鏡、つまり自分の一部と

言っているけれど、

 

彼ら影たちもまた、

自分の一部だったんだ。

 

見張っていることも、

見守っていることも実は同じで、

 

自分で自分をどうにかしようと

もがいていた自分が潜り込んでから後、

 

どこか異世界のルートを通って、

影になってそこにいてくれているんだ、

 

そんな感覚がふいに湧いてきました。

 

「影はいつしか私の周囲にあっても、

私の住む世界と重ならなくなった」

と書いているけれど、

 

正確には、

皆が普通に暮らす世界と影の世界の

境界が消えたのでしょう。

 

人も物も現象も、自分の一部。

 

もしまた行き詰って生きづらくて

どうしようもなくなることがあったなら、

そう受け止めるようにしてみよう、

 

それが頭でこねくる理屈ではなく、

肌感覚として宿っているとわかった時、

 

また一つ大切な自分の一部と

出会っていたのだなと

感じることができました。

 

 

ああ、やっぱりちょっと恥じかぴいけれど

掲載しよう。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『町の影絵』