1.幸せを欲する私たち
幸せ、幸福。
この、月並みな言葉。
いつの時代にも必ず多くの人が求めるもの。
幸せに関連する本や記事は、古今東西、
それこそ数えきれないほど出ているし、
その手のセミナーや講演は
あちこちで行われています。
かくいう私もその昔、
様々なジャンルの本を手に取り、
あちこちのセミナーに出かけ、
その手のイベントに顔を出し、
自分の求める“何か”を
探し続けていた時期がありました。
そうやって場数を重ねるうち、
なるほどと思ったこともあったのですが、
わからなかったのは、
結局、自分にとっての幸せって何だろう
ということ。
幸せ、しあわせ、シアワセ…。
一般的なことなら、
思い浮かべることはできます。
好きなことやって、
たくさんお金稼いで、
欲しいモノを買って、
大好きな人と一緒に暮らして、
健康で長生きして、…。
あるいは、どこか静かな地で、
ひっそりと一人静かに
隠居するように暮らす…。
誰も知らない場所で、
人に紛れて淡々と生きていく。
ここに当てはまるかどうかはともかく、
このくらい粒度が粗い構想は
誰もが何となく思い描いている、
少なくとも想い描いたことがある、
今も秘かに目指したいと思っている、
という感じではないでしょうか。
ですが、私はと言えば、
憧れたり逃避だったりしても
求めようと思うほどに、
それらが曖昧に感じて
正直なところぴんと来ないんです。
私と同じようにぴんと来ない人は
少なくないようにも思うのです。
2.幸せを欲する状態
幸せを感じていて、
幸せを求めている人っているのでしょうか。
なんだか言葉の遊びみたいだけど、
幸せという言葉を使うかどうかはともかく、
完璧な世界を体現できている人が
早々いるわけではない以上、
程度の差はあれ
誰もが現状に不満はあるわけです。
この不満な状態。
不満の代わりに、不安でも不快でもいいです。
これが幸せを欲する理由だとしましょう。
外的には平静を装っていたり、
まあ現実はこんなもんだと
諦念半分で暮らしていたりしても、
私たちはどこかに不満を抱えていますよね。
それは仕事の内容かもしれないし、
職場の人間関係かもしれないし、
収入の多寡かもしれないし、
うまくいかない自分の人生かもしれない。
夫(妻)の態度かもしれないし、
収入や未来への展望かもしれない。
それらが理由と言うわけではないにしても、
感情が荒れる日々を送っていたり、
お酒や何かに依存してしまっていたり、
あるいは抑鬱的になっていたりといった、
心・スピリット(魂)の問題が
顕在化している人も、
最近はめずらしくはなくなってきました。
3.幸せへの気づきのプロセスとは
さて、不満という状態についてもう一度。
誤解を恐れずに言えば、
不満は事実でもあればフェイクでもある、
と私は考えています。
現実とはその人にとっての幻想のことだと
故カールロジャース博士の言葉を
紹介させていただいたことがありますが、
現実がその人にとっての幻想のことなら、
不満もまたしかり。
そう受け止めた上で、
不満を批判しても、
不満のある現状を嘆いても、
それだけでは自分が求める幸せに向けて
何も変化しないことに気づくとき、
考え、というより
体の感覚と
心の動きと
魂の力の向きが
変化を始めます。
世間と言う抽象的な存在が決めたであろう
実態の感じられない
曖昧な幸せとか成功なるものについては、
とりあえず脇に置き、
自身の感覚に沿って
自身が求めることに向けて動き出すようになる。
結果、うまくいくこともあれば、
うまくいかないこともあるでしょう。
例えば、
新しく始めた仕事で大儲けしたり、
素敵な伴侶ができたり、
人生終わったと思ってたら、
歳を取ってから一花咲いたとか。
反対に、
自分で選んだ仕事が鳴かず飛ばずとか、
返す当てのない借金背負ってしまったとか、
離婚する羽目になったとか、
事故っちゃったとか。
神様は越えられない試練は与えない、
そう言われます。
自分の行ったことに関しては、
器以上の失敗はあり得ないと
解釈することもできます。
するとやっぱり、
先に起こることを恐れるのではなく、
自分で決めて動くことがまず必要で
それが幸せのきっかけとなる。
で、ですね。
ここまで述べてきたことは、
人によってはご存知の話かもしれません。
最後は自分が気づくことなんだよ、と。
確かにそうなんですよね。
ここでふと思うのは、
ここまで述べてきたことは、
誰にでも当てはまることなのか、
ということなんです。
そんなことが気になってしまうのは、
私自身が心理カウンセラーであることや
そこに至るまでの個人的な経験、
そして、
カウンセリングの学習段階において、
精神医療機関で回復に努める方々の、
筆舌に尽くしがたいなどと言う言葉では
表現しきれない生い立ちが
現在の生きづらさ・行き詰まり感に
無意識的に与え続ける莫大な影響を
間近で見聞きしてきたからかもしれません。
同じ何かを学ぶにしても、
同じ何かを記憶するにしても、
同じ何かを表現するにしても、
同じ誰かとつながるにしても、
同じ世界を受け止めるにしても、
個人差と言う言葉に育成環境の影響が
含まれるのであれば、
当然と言えば当然のことながら、
人によって、
できることも、
目標とすることも、
求めるものも
全く変わってきます。
私たちはいくつになっても、
頭で考えるように動いているつもりが、
実際には、皮膚感覚に宿した
感性をベースに生きているものだからです。
当然ながら、その人ごとに
対応できることも、
目指す先も、
求める世界も、
目標設定も
異なってくると思います。
4.私たちにとっての幸せ
健康に生きていることを感じるとき、
私たちの脳はセロトニンと言う
脳内物質で満たされるそうです。
暮れなずむ空を見上げて川べりを歩きながら、
一日の終わりにほっとする瞬間。
思わず伸びをして、体の力を抜きながら
自分が健康な体でこの世に存在している
ことへの安堵と言ってもいいかもしれません。
人の間のつながり・親密さを感じるときに
分泌されるのはオキシトシン。
友人に相談にのってもらって
気持ちが楽になった時や、
不安な気持ちの子供が
親に抱きしめてもらった時に感じる
安全、安心な感覚を含みます。
達成感や感動など、いわゆる
ワクワクドキドキのときは、
ドーパミンが出ると言います。
会議のプレゼンが無事成功して
仕事が一山超えた時のように、
何かを達成すると得られることは
良く知られています。
このどれもが幸福感の要素ではあるのですが、
どんなときにセロトニンが放出されて、
どんなときにオキシトシンが分泌されて、
どんなときにドーパミンが
ドバドバでるのかは、
前述のとおり、
人によって異なります。
例えば、私は夕景がとても好きですが、
戦時中の兵士たちの中には、
夕焼けが嫌いな方もいました。
明日の朝また太陽を拝めるだろうか
という気になって
気がめいってしまうからだそうです。
冬の夜にこたつに入って暖まるのは
私にとってはホッとするところですが、
それと両親の暴力沙汰が
物心つく頃から繰り返されて
心の中で結びついてしまっている人にとっては
遠ざけておきたい場面です。
例を挙げればいくらでも出てきますが、
そういうわけで人によって
何をもって幸福と感じるかは
本当に千差万別だということです。
コンサルティング事業を立ち上げて
日本中に名の知れ渡るほどの企業にして、
オーナー社長として成功して
南青山に家を建てるんだ、
だからそのための計画として、
いついつまでに何をして、
などと言う人もいるでしょう。
または、
ようやく抑鬱的な状態から快方に向かって、
半年の間に働き始める場所を見つけて
人と交わっていくことに慣れていこうと
日々少しずつ動いている人もいるでしょう。
そうやって見てくると、
本当に、ほんとうに、
幸せとは、求めるものとは、
その人ごとに大きく異なるし、
幸せの形は一律に語ることができるのかな、
というところに突き当たります。
それは言い換えれば、最初に述べた
私にとっての幸せとはいったい何だろう、
ということの裏返しの疑問でもあるわけです。
結局今の私に言えることは、
何をしたいか、
何を目標として
どう対応していくかは全て
その人ごとに異なっていて、
しかも目標を達成したから
後は左うちわでいられるわけでもない、
必ず“次”が出てくる、ということです。
人と比較することなく
自分にあった自分とのつながり方、
人とのつながり方を求め、
今感じている不満(繰り返しますが、
不安・不快も含みます)な状態から
少しでも自分の望む方向へ動く。
運よく(運よくですよ)その目標を
達成できたら、しばらく休んで、
また、次に感じる不満を解消するように
動いていく。
“自分の選択”によって、
不満な状態からの飛躍を続けているわけです。
だとすると、
このプロセスが幸せっていう、
なんか月並みなことが結論?
あれ?
じゃ、不満が必要?
自分にとっての不満をあきらめることなく
きちんと感じとって、
そこから求める方向を自分で選択して
動くことが幸せということ?
じゃ、不満は幸せの源?
ー今回の表紙画像ー
『サバの塩焼き』
なんか食べたくなった。。。
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