自分が慣れ親しんだ場所から、
新しい世界を求めて動くことができないまま
長い時間を過ごしました。
決して無為なだけの時間というわけでは
なかったのですが、
本来的な意味合いで、
当時の、俯いて苦しんでいた自分に
必要なことを行うという点では、
動けない、
動こうとしない、
動かない理由を正当化する、
ということを繰り返し行っていました。
特定のことは行うけれど、
ルーティンになった後に、
そこから出ようと試みないまま、
自分は自分なりに動けているんだ、と、
結果の変化だけを求めていた、
というところでしょうか。
一歩引いてみれば、
慣れ親しんだ世界が自分を蝕む
可能性が大きくても、
そこから出ようとするために必要なことを
「それやって何になるの?」、と、
もっともらしい言い訳をして、
とにかく動かないようにしていました。
実際、
自活のために働いてはいましたし、
全く何もしなかったわけではありませんが、
心が社会から引きこもった状態のまま、
過去からの継続で慣れ親しんだことだけを、
効率よくしたり、集中したりすることばかりに
耽溺していたのは、
新しい世界を求めること、
新しい世界に身を置くことが、
怖かったからでもあったのでしょう。
新しい世界とは、
新しい場所であり、
新しい人々であり、
新しい集まりや組織であり、
新しい分野であり、
新しい時間であり…
そして、
言い訳の必要がない世界のことでした。
私はずっと
「しこうさくごA」をしてばかりでした。
★
その状態のまま、
生きていくことができればいいのですが、
身動きが取れない状態になりました。
慣れ親しんだことが
手につかなくなるほどに、
自分が混乱して苦しくて、
いても立ってもいられなくなったのです。
ただ単に仕事をしたり、
人と簡単な会話をするにも、
多大な心の準備が必要で、
焦燥感や苛立ちや得体の知れない恐怖に
日々苛まれたまま、
その真の原因をつかむこともできず、
自分が何をどうすればよくなるのか、
何をどうすれば何かに働きかけられるのか、
この苦痛に満ちた世界から“脱出”できるのか、
全く分からず、
自分の動きと世界とが完全に断絶して
しまったように感じていて、
それが先に述べたように、
混乱と苦痛と得体の知れない恐怖にも似た
感覚で包まれるに至る理由でした。
身体を壊していたり、
命の危険にさらされていたわけでは
もちろんありません。
傍から見れば、
ただのサラリーパーソンです。
ただ、同じような生き方の中で、
血のつながった家族は皆、何某かの理由で
倒れ、他界し、壊れてしまっていて、
残された自分もまた居場所を感じられる
場所を持たず、
何のために働いているのか、
何のために生きているのか
わからなくなっていて、
生きることそのものに対して、
絶望していたことにさえ
気づいてなかったのかもしれません。
とてもベタな表現になりますが、
結局のところ、
自分自身とのつながりを見失って久しく、
それをして魂が窒息しかけていたのだと
思います。
なんだかんだと自分を後回しにして、
原家族、親のことにかまけて
多大な時間を費やしてきたのだから
仕方ありません。
そこから私の、
『しこうさくごB』が始まりました。
手始めに、
自分のこの状態を説明してくれる
情報をひたすら求めました。
まだインターネットも広まっておらず、
情報と言えば本と関連機関に頼るしかない
ような時代でした。
あちこちの書店や図書館を彷徨いながら、
家族病理、心理療法、精神医療、
心理カウンセリングに依存症、
PTSDに愛着障害を始めとする
各種の障害など、
ほんの少しであっても、
何某か自分の状態を説明してくれる
内容が書かれていそうであれば
手に取り、
もしかしたら“助かるかもしれない”と
貪るように読み込みました。
大方は内容が表層的なものだったり、
自分のことと外れていたり、
というものでしたが、
少なくとも著者と
解決策となる機関や方法、集まりなどが
記載されていて、
ある種藁にもすがる思いで、
そういったところを訪ね歩きました。
足を運んだ場所で即効性があるところは
一つもありませんでしたが、
それは当初から織り込み済みです。
そもそも自分の苦痛に満ちた状態が
インフルエンザのように瞬時にそうなったのなら
ともかくも、
長年かけて醸成されてきてしまったもので
ある以上、
良くなるうえでもそれ相応の時間が必要に
なるのはおかしなことではありません。
そうやって、新しい方法、新しい人と出会い、
そこから新しい情報が入ってきました。
もちろん眉唾な情報や怪しい人もいましたが、
少なくともそれらを含めて新しい出会いが
いくつもあって、
その中で影響された私は
それまでとは異なる私になっていきました。
★
「しこうさくご」は通常、
試行錯誤、という字を誰もが思い浮かべると
思います。
とても有名な言葉で、
英語ならトライアンドエラーになります。
うまくいくかどうかわからないけれど、
まずはとにかく試しにやってみて、
結果が駄目なら考え直す。
それを自分なりのアプローチで
繰り返すことを意味します、
ということですね。
それに対して、
私の「しこうさくごA」は
思考錯語でした。
この熟語は、私の造語といいますか、
正確な使い方ではありません。
錯語は勘違い、間違いなどの症状を
指します。
ともかくも考え間違いして、言い訳して
肝心のトライをしないで、
考えの段階でエラーを発生している状態です。
とてももったいない。
何か混乱に陥っている時、
人の頭脳は正常ではありません。
数学や物理の問題は解けるかもしれません。
走ったりボールを蹴ったり打ったりすることは
できるかもしれません。
でも肝心の思考と解釈は残念ながら
人一人の頭が万能でない以上、
事を起こし続けてわかるしかないこともまた
数多くあるのは、
賢明なあなたなら
お分かりのことと思います。
たかが試行錯誤ですが、
追い詰められ、極限まで苦しまないと
始められないのでは時間がもったいない。
明日を今日より自分に合った
世界にするためには、
今日トライアンドエラーを繰り返すことです。
今までのあなたにも無駄は
実はなかったのだと思います。
それなりに動いてそれなりに納得して、
でもどこかで疑念に包まれている。
ならば、
行動と選択の質は変えていった方がいい。
予期せぬ成功は、
予期せぬ行動の結果だと
私は思うのです。
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ー今回の表紙画像ー
『サントリーホール前のクリスマスツリー』
今年も年末のなべさだのコンサートに行ってきた。
いい。とってもいい。
長生きして、これからも素敵な曲を聴かせてください。
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