自分が変わることの意義

日々の棚卸

 

唐突ですが、

 

自分を変えるという発想は、

いつ頃からあったのかなと

ふと思ったことがあります。

 

周りを変えるより、自分を変えることが

本当の意味で望む人生につながることが

浸透しているのかどうかはわかりませんが、

 

日本の場合、個人的には

親鸞の頃には芽吹いていたのでは、

と思います。

 

あの、

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

で有名な、浄土真宗の開祖ですね。

 

なんと12~13世紀ころになります。

実際には、もっと昔からあったのかも

しれません。

 

余談ですが、父方の祖母は、

毎日熱心に仏壇で経をあげていて

浄土真宗だったようです。

 

父の実家に行くと毎朝6時に起こされて

祖母と一緒に仏壇に向けて

経を唱えさせられていました。

 

あの頃はいがぐり坊主頭だったな。

なっつかしい。。。

 

 

自分を変えようとするきっかけは

人それぞれあると思います。

 

自分をもっと良くするため、

仕事や人間関係、人生を望むものにするため、

世の中から認められるようになるため

 

という感じでしょうか。

 

でも、そういった理由で

自分を変えるってホントに必要なのかな、

とも思います。

 

そこで使われる“自分を変える”とは、

何だか、今より能力を磨いて向上させる、

と聞こえなくもありません。

 

悪いことではないと思うのですが、

私が語りたい“自分を変える”ということは、

 

もう少し私たちの根幹的な部分について

なんです。

 

私たちは苦しい時、

もちろんその内容にもよりますが、

どうしても周囲の責任にしがちで

変わるのも周囲の方だ、となることがあります。

 

周囲とは、

特定の誰かだったり、環境そのものだったり、

ともかく、自分の外側にある“何か”ですね。

 

それはある意味、“正当”だと思います。

 

つまり、例えば

 

あなたの両親が横暴で互いに険悪の仲で

お金もなく、

 

一時だって家にいたくない、近寄りたくない

という状況を想定すると、

 

あなたが子供だろうと、

20代だろうと

30代だろうと

40代だろうと

50代だろうと

 

親が存命で、その空気をまとったまま

常にあなたと接するならば、

親に対してそう感じることを苦しみながらも

やはり嫌悪の情を抱くでしょう。

 

だから、あなたたち親の方が変われ、

こちらは非常に不快で苦しい思いを

常にしているのだから、

 

という感情があるとするならば、

それを、ある意味、“正当”だ、と

述べたわけです。

 

親を例にしましたが、会社勤めの人は、

上司や同僚や部下かもしれません。

 

ママ友かもしれないし、

地元の自治会だったり、

地域のクラブ活動なのかもしれません。

 

その人たちと、

おいそれとは縁を切れない環境下で、

 

本来“そうであるべき”ことを実践していない

人たちに対して

哀しさに端を発する、ある種の嫌悪の情を

抱くことになるわけです。

 

繰り返しになりますが、

そこには確かにある種の正当性が

あるのでしょう。

 

だから…

 

今の正しい自分軸から変わりたくない、

 

××が憎くて腹立たしくて仕方ない、

 

だから、変わりたくない、

 

その怒りや哀しさが苦しい、

 

でも、変わりたくない、

 

辛い…

 

何が何でも、変わりたくない、

 

もうわけがわからない。

何でこんなに辛いんだ、

自分が一体何をしたというんだ、

 

自分が変わらなければいけない

なんてことは“どう考えても”

あるわけがない…。

 

苦しさ辛さを胸に抱え、

身体に痛みとして感じ、

抑鬱的になりながら、

 

しばらく堂々巡りの思考が続きます。

 

でも、

その正しいはずの主張はともかく、

理由の正当性はともかく、

 

憤りの感情や悶々とした不快感が続いて

心の中が穏やかに休まることはなく、

毎日がくるしくて苦しくて仕方がない…。

 

この苦しさを脱するために、

 

自分が置かれた状況の構造を

理解しようとして、

 

おかしなところを指摘して、

 

正しい状態を導こうとして、

 

動き、話し、発信したけれど、

 

その結果1つだけ言えることは、

何をどうしようと、

 

周囲も苦しさを感じ続ける現実も

変わらなかったということ。

 

そして、この苦しさを

今の自分では変えることができない、

と思った時、

 

“自分が変わる”ことに思いが至る、

というプロセスを経て、

必要なことだとわかるようになるのでしょう。

 

苦しさが続いていた間、

自分の本来的な能力や力は

封じ込められていました。

 

それと関連して、

気持ちは目の前の大切な誰かや何か、

ではなく、

 

自分を苦しめる人々への不快な

感情に支配されていて、

 

それが結果として、

仕事も、人の関係も、生き様そのものも

中途半端な状態にしてしまっていた。

 

そういう意味では、

“自分が変わる”ことが必要な理由は、

 

他者に自分を良く見せるためでもなければ、

仕事や人の関係の点数稼ぎでもなく、

 

根源的な生きる力を、

もう一度湧き上がらせるため、

と言うことができるのではないでしょうか。

 

それを、職場や友人関係の中で気づくか、

心を扱うもう一つの場所で芽生えさせるか、

それはあなたが選択すればいいと思います。

 

いずれにしても、今もたらされている苦しさを

“自分を変える”必要性を促すメッセージと

受け止めたとき、

 

その苦しさがどんな類のものであれ、

人の中で生じてしまった状態ならば、

それを癒し、受け止め、恢復していくのもまた

人の中でしかありはしません。

 

自分の思考の外側に身を置き、

自分の意思を超えた流れに

虚心坦懐に心を委ねた時、

 

自分の中に閉じこもったままでは得られない

もう一つの芯のあるあなたが生まれます。

 

そのあなたは、

これまで忌み嫌っていたり

悲しんでばかりいた人との関係を

 

新しい目線、大人になった目線で捉えて

自分も相手も活かすような

やはり新しい対応ができるようになるでしょう。

 

自分を変える、自分が変わる、とは、

人の中に心を委ねて、

もう一人の大切な強いあなたを得ること

なのかもしれません。

 

 

親鸞の次のような言葉があります。

 

一人居て喜ばは二人と思うべし、

二人居て喜ばは三人と思うべし、

その一人は親鸞なり。

 

これを訳すと、

 

一人でいる時は二人いると思いなさい

二人いる時は三人いると思いなさい

その一人は私、親鸞です

(親鸞がいつもそばにいます)

 

鎌倉時代の言葉です。

 

人が変わること、可能性を

人の中に求めた言葉は、

今に通じるものがありますね。

 

孤独に苛まれることなく、

あなたらしく日々を生きてください、

という800年前の言葉として聞こえるのは

私だけでしょうか。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『台風通過前の束の間の青空』

近所の川に行ったら、親水護岸の遊歩道まで

水が上がっていた(画面左半分)。

昨夜の暴風と雷で、立っていた木が濁流に折れていた。

西の空にはまた黒雲が。。。

台風が熱帯低気圧になったので、

とんでもないことにはならないと思うけど。

明日まで大人しくしていよう。。。