「責めやすいところを責め、被害者を続ける人間と圧倒的な力を持っている存在に甘い、というのは駄々っ子のようなものです」
まだ心理カウンセリングの勉強と並行して何かのセミナーに通っていた頃に、その時の講師か誰かから聞いた言葉です。インターネット上で匿名のまま発信する輩の無責任さを指して、批判した際の一節だったような記憶があります。
(普段見ている趣味のページ(私は釣りや食べ物のページの書き込みを読むのが好きです)や2CHの掲示板でとても参考になる発信だって匿名なのに、なんでそんな理屈になるのだろう)
それがその時の感想で、なんでこんなところに来たんだろうと思ったものです。
ですが、発信者の匿名性に対する是非がここで取り上げたいわけではありません。
話を聞きながら、私は話の内容がひっかかっている自分に戸惑いました。駄々っ子という言葉とその説明に反応していたのです。
「責めやすいところを責め、被害者を続ける人間と圧倒的な力を持っている存在に甘い」というのが、まるで自分のことを言われているように思え、それを見ず知らずの相手から駄々っ子と称されたことに凹んでしまったという感じです。要するに、既に自分が自分にこのようなところがあることをうっすらと感じ取っていながら、きちんと認めていなかったのでしょう。
家族が壊れてしばらく混乱の日々を過ごした後、心理の世界にたどり着いた私は、学習の中で自分に起こっていた状況を解釈しながら、自分のことを被害者だと思っていた時期がありました。それも、単なる感情ではなく心理の学習の結果なのだから、これはまごうことなき事実なのだと、激烈に思い込んでいました。それにより、混乱が収まり、罪悪感が減ったものだから、局所的に楽な感じになるとともに、父にも、母にも、社会に対しても、徹底して非を突きつけたい衝動に駆られていたものです。
専門的な知識を学んで自分が置かれた人の関係の構造を理解した後、そこからどうするか、自分が影響を受けて歪んでしまっている部分をどうしていくのか、自分自身とどう向き直り、そういう歪んだ状態であっても曲がりなりにも自分を育ててくれた親との新しい関係をどうするのか、そういったところに焦点をあてていませんでした。確かに、すぐに実行するのは無理だったかもしれません。しかし、まるで昔の人が「大学に行くと馬鹿になるよ」を地で行くように、頭でっかちよろしく、奥底にある感覚、情動の本質に触れることなく、理屈でそう判断していました。
少しばかり当時の自分の味方をすれば、ある意味仕方がない面があったと思います。情動の混乱、頼るべき場所を見出せない(見つける能力がない)、感情を暴走させずに個人で対処する、既存の会社で食べていく、そういった条件をクリアしようとすると、ある種の理屈に依拠せざるを得なかったと思うのです。
これはもちろん、“言い訳”にすぎません。
誰かに頼るとか、特定の機関に相談する、という発想は全くありませんでした。とてもそんなことができる類の内容ではないと思っていましたし、そういう情報をどうやって得たらよいのかもわからなかった。今思えば、本の著者に会うなりすればよかったと思うのですが。
いずれにしても、自分に起こったことの解釈がそこで止まってしまっていました。
洞察に至っては、ほぼ0でした。
自分を被害者だと位置づけると、自分が悪者ではない新しい世界が開けてきます。
ああ、自分は間違っていなかったんだ。悪いのは彼らだったんだ、ならば自分はもう苦しまなくてすむはずだ。
悪者が別にいて、それは自分ではない。
書いていて残念ですが、それが若かりし頃の私が率直に感じていたことでした。
親元は離れていました。(私の)給料で家を建てて一緒に暮らしてほしいと言い出した父の申し出を振り切り、仕事がこちら(地元ではない)だからと一人で暮らすことを選択していたからです。
そして先ほどの解釈に行きついた時、社会人になってしばらく経っていましたが、ようやく新しい日々が始まったような気になっていました。周囲も世界も味方だと捉え、落ち込む心を“鼓舞”して笑顔を作りこんで接していくと、周囲もまた仲間に加えてくれるようになります。会社の中でも外でもそうやって一時的につながりができ始めました。
それは、周囲にとってはおそらくめでたいことだったかもしれません。ずいぶん付き合いやすいやつになったな、と実際に言われたこともあります。化けたな、と。
しかし、自分と付き合う自分、これからもつき合い続ける自分にとっては、そうではありませんでした。ある意味ではそれまで以上の地獄になってしまいます。
理由はただ一つ。
自分以外の誰かを悪者にしたところで、歪み荒れ狂った自分、混乱した自分はずっとそこに残ったままなのです。彼(彼女)は、時に自分を攻撃し、返す刀で周囲に腹を立て、最後は自分自身を貶めてしまうという自分との接し方を放置されたまま、途方に暮れ、笑うことも、楽しむことも、話すことも、喜ぶことも、これまで以上に自分の外側に基準に沿って行うようになります。だって悪くない周囲を混乱しているからという理由で攻撃なんてできないですからね。そしておそらく、自分がそんな状態、つまり自分の感情と行動が自分の内側でなく外側の基準にあわせていることにさえ気づかないまま、周囲から見たら笑ったり楽しんだりしているように見えながらも、どこかで溺れかけ、これまで以上に苦しむ自分ができあがってしまうのです。
不思議ですよね。
自分が悪かったから混乱していると思っていたのが、悪者が別にあって自分は問題なかったんだと一見霧が晴れたと思ったら、実は何の解決にもなっていなかったなんて。。。
自分を含めた誰かを悪者にしておくのは、都合がいいことです。なぜなら、その時の状態を正当化できるから。そして、ゆっくりと自分が蝕まれていきます。実はこれ以上に自分を痛めつける見方・考え方はないんですね。
親が子の幸せを願ってやまないように、子も親の幸せのためなら自分を悪者にできるんですよね。
では、どうしたらよいか。
それはこれまでにも書いてきましたので今回は割愛します。
「君はよく知っている。知っているだけだから困るんだ」とは某SF作品のコメントです。
駄々っ子と称しましたが、これほど苦痛にのたうち回る存在もない。
他者、ことに親を悪者にし『続けて』、自分にいいことなどありません。
一部の本当に苦しい子供時代を生きてこられた方々の反発を覚悟で、そう申し上げさせていただきます。
ときどき、このような話を書くことが苦しくなるのは、あの頃の自分の状況を120%受け入れているわけではないからかな、と訝るときがあります。やっぱりちょっと恥ずかしいし。
どうか、他山の石としてください。
そして、自分をそうしてしまっていないか、振り返ってみてください。
ー今回の表紙画像ー
『ジョギングルートの黄色い花が満開』
最近のコメント