ステージが変わってつきあう人が変わる?

日々の棚卸

 

突然ですが、

最初に少しだけ数学の話、

それからスピリチュアルの話を

させてください。

厳密には、

数学というか、論理の話ですが、

そういうのは、

好きじゃない、苦手、嫌いな人も

多いと思います。

私も理系君でありながら、

なんで理系に進んだんだろうと思うほど

結構苦手です。

それなりに引き込まれる部分は

あったのかもしれませんが、

難解な部分はだいたいスルーしてました。

 

論理は、キリスト教世界では

神の存在証明にも用いられましたが、

それはちょっとおいておきます。

 

で。

 

最初に、

AならばBであるという命題を考えます。

A? B? なんかやだなあ~。

命題? もう読まないっ!

まあまあ。

そう言わずに。

 

命題という言葉は、設定とでも置き換えて、

「AであるならばBである」という設定と

受け止めていただいていいと思います。

例えば、

(1)トマトは(A)、赤い(B)

(2)ケーキを食べ続けると(A)、太る(B)

 

論理の世界では、

AならばBが正しい場合には、

次の、

正しいこと=真、

正しいとは限らないこと=偽

が、

証明されています。

 

正しいこと=真:

→Bでなければ、Aでない

これを“対偶”と言います。

 

正しいとは限らないこと=偽:

→BならばAである

これを“逆”と言います。

↑このことからすると、

(1)(2)がそれぞれ正しいとした場合、

“対偶”である次のことが、

正しいといえます。

 

(1)の場合

赤くないならば、

トマトではない

 

(2)の場合

太らないならば、

ケーキを食べ続けていない

 

これとは別に、

“逆”である次のことが

正しいとは言えないといえます。

 

(1)の場合

赤いならば、

とまである

 

(2)の場合

太るならば、

ケーキを食べ続けている

 

これらは、当然ですが

正しいとは限りません。

 

結局長い前置きになってしまいましたね。

すみません。

 

数学・論理の話の次は、

スピリチュアルの世界の話です。

 

スピリチュアルの世界では、

自分や周囲に対する様々な働きかけを

行うことで変化が訪れるとき、

ステージが変わる、

と言ったりします。

次元とかステージとかを

自分が生きる世界に当てはめるのは、

抽象的というか、曖昧というか、

人によっては胡散臭く感じるというか、

つまり、

理屈で表現しづらい概念ではありますが、

かけがえのない自分を生きるているかを

表現する尺度として、

便利な方法ではあると思います。

あなたの感じる、

生きやすさ/生きづらさ、

納得しているレベル、

自己肯定のレベル、

そういった感覚をステージと表現していると

解釈すると、

もう少し、

具体的になるかもしれません。

 

かくいう私自身、

ステージが上がるという表現は、

正直少しひっかかるものがありますが、

その意味するところは、

自分が自分に対する肯定感を増す、

生きている日常と

自分の在り方に対する納得感が増す、

自分の大切さや生きる幸せを

感じる感覚が増す、

自分の中や身の回りに存在する豊かさを

実感する感覚が増す、

という意味だと思います。

 

そんなとき、

つまりステージが変わる、

ステージが上がると、

付き合う人や、

付き合い方が変わる、

と言います。

 

私自身の実感みならず、

これまで

自らを受け入れることを

真摯に続けてこられた方を見ていての

率直な感想でもあります。

『ステージが上がると、

付き合う人や、付き合い方が変わる』

時々、この言葉の受け取り方を間違えて、

「そっか、ステージが上がると、

付き合う人や、付き合い方が変わるのか。

じゃあ、付き合い方、付き合う人を変えよう」

(そしたら、ステージが上がるはずだ)

と、

いきなり現在の人との関係を切ってしまったり、

突然相手に文句を言いだしたり、

転職してしまったり、

する人がいます。

 

これを命題とすると、

命題:

ステージが上がると(A)、

付き合う人や、付き合い方が変わる(B)

 

に対して、

気を付けなければいけないことが、

2つあります。

 

一つは、最初に述べた論理の話。

命題が正しい=真である場合、

正しい=真であるのは、

先の論理に従えば、

命題の対偶、つまり、

付き合う人や、

付き合い方が変わらなければ、

ステージは上がらない、変わらない

となります。

 

多くの場合、ステージの変化とは

内面の変化によります。

付き合う人や、付き合い方を変えたら、

ステージが変わる、とは限らないのです。

変わるかもしれないけれど、

それは付き合い方を変えたから、とか

付き合う人を変えたら、とか

であるとも限らない。

むしろ自分の内面が変わらないままでは、

新しい人の関係や

新しい付き合い方の中で、

それまでと同じような

不幸を繰り返すだけになりがちです。

 

前世紀末の少し古いデータですが、

アルコール依存症の親を持つ子供は

男の子の半分はアルコール依存症になり、

女の子の1/3はアルコール依存症の

伴侶を得る、

という統計が出ています。

ステージの変化に必要な

内面の変化、

自分というかけがえのない存在の

受け止め方が変化しないままで、

伴侶の選択という

他者との関係だけを変えることは

決してステージを変化させないどころか、

今のその内面世界を具象化したステージを

固定化することにさえなりかねない、

そんなことが言えます。

 

もちろん、

暴力を受けたり、

人としてまともに扱ってもらえない環境は

変える必要があります。

そういう意味では、

付き合う人や付き合い方を

変えた方がよいことはあります。

でもそれは、

ステージを変えるためというよりは、

かけがえのない自分を守り、

慈しみ、しっかりと自分に寄り添って

生きていくためです。

つまり、

自らを受け入れ、

肯定していくという内面の変化の結果、

行動が変わり、ステージが変化し

付き合う人や付き合い方の変化が

訪れるのです。

 

違い、わかりますか。

自分の内面にフォーカスするか、

周囲への不平にフォーカスするか。

 

気を付けなければいけないことの2つ目は、

そもそも私たちが

日々悩んだり苦しんだりしていることは、

命題のように一部の事象を切り取って

考えれば済むという話ではない場合が多い

ということです。

そして、

論理の話をしておきながら何ですが、

ステージの変化につながる内面の変化は

理屈で起こせるものではない、

ということです。

 

そこには、いつも言っているように

自分を受け入れ、

自分に寄り添い、

見失ったり遠ざけていたりした

もう一人の自分と邂逅し、

自分の一部として認識することが

必要なのですが、

そのプロセスには、

小さな理不尽だったり、

アンラッキーな出来事が続いたり、

といったことばかりを感じるときが

あったりします。

ある種の変化が生じ始めるときに

往々にしてあることなのですが、

これまで蔑ろにしてきた自分を

認めようとしているのだから

最初は自分の内外で

反発が起きることがあっても

不思議ではありません。

 

そんな時に、

受け入れの作業をやめてしまうことなく

かけがえのない自分の一部と

ようやく再開したのだから、と

出会いともう一人の自分を慈しみ、

あきらめることなく継続することで、

(とてもスピリチュアルな表現ですが)

普段何気なく知覚している世界を超えた

大きな力が、

あなたのそんな在り方を“配慮”して

くれるようになります。

なんか宗教的な表現ですが、

「天は自ら助くる者を助く」

なのです

人も、世の中も、

あなたがあなたと接するように

あなたに接します。

だから、あなたが本気になって

想いを込めてあなた自身と

生きることを実践し続けると、

それに見合った世界が少しずつ

表れてくるのです。

ステージが上がる、ということは

そういうことだと思います。

 

私たちは、

世の中のすべてをわかってしまったような

そんな錯覚に陥って、

その中で自分は

もうどうしようもなくなっている、

追い詰められている、

何をやっても変わらない、

と、

ニヒリスティックに自分と接していることが

あったりしないでしょうか。

それを打破するために、

ステージという言葉に踊らされることなく

それもまた自分との接し方の結果である

ことを認識していただければと思います。

 

繰り返します。

私たちが最初に実践すべきは、

自らを受け入れることです。

そこには、知覚する世界を超えた圧倒的な調和が

そんな受け入れた自分を含めて

内面に変化を起こしてくれます。

まずはそこに焦点を戻してみましょう。

 

ー今回の表紙画像ー

『Moon Light Park』

昨夜の続き。公園の上にかかる月。マグリットみたいだ。