独り。
この言葉を目にして、どう受け止められたでしょうか。
中には、表題を見て“ひとりで”にクリックしてこのページを開いた方もおられるかもしれません。この文言は、ずっと昔に読んだ、ある本の小さな挿絵の題名からいただいたものです。抽象的すぎるかな、と考えあぐねるまま、何となくここに落ち着きました。
このブログは、かけがえのない自分を生きるために日々実践できることを述べています。その対象には、ずっと昔の闇の中に固定されかけてもがいていた私自身がいて、彼がまた自分を見失ってしまうことがないよう、自分をとことん振り返り、自分の中に生きる力があることを伝え続けています。それはそのまま、他者に見守られている自分という認識と、独り立つことの自由と幸福感の継続とを保ってくれます。
かけがえのない自分を生きることは、自分と自分の大切な人や世界を大切にすることに他なりません。かと言って、ただ漠然と、そうしようと思って力んでも、イメトレだけでは心がついていかなかったり、何をどう大切にしたらよいかわからなかったりで空回りを続けた末、疲れ果てて途方に暮れることになってしまいます。行き着く先は、切に願ったはずの状況と正反対の結果…。
大切だ、と思うとき、その気持ちに嘘はないでしょう。少なくとも私は、そのことを信じられる。
ですが、残念ながら、大切だ、と想う気持ちを“現実化”することは、人によっては一朝一夕でできるものではありません。願ったぞ、さあ、結果はどうかな、などと期待を抱いて、思い通りにならなくて怒ったり、悲しんだり、最後にはあきらめてしまう人は多いものです。トラブルが町ですれ違う人や、一時的な知り合いならコメディ漫画にだってできなくはないかもしれないけれど、事は大体が身近な関係の中で生じる話だったりするので、結果は重大です。
そういうわけで、こんな世界なんて“簡単”に実現できるよ、と言うのは“簡単”だけど、実際にはなかなかうまくいかないことが多いことはご認識のことと思います。
よく言われるように、私たちは自分と接するように人と接します。そして、近しい間柄であるほど、“表面上”の言動や立ち居振る舞いだけで内面を誤魔化しきれるものではありません。もちろんこういった“表面上”の言動が無意味というつもりはありません。ですが、これは補助剤ようなものです。あなたがあなた自身に対して接するように、身近な人に対してほど、無意識に根付いたあなた自身への接し方と同じものが伝わってしまうのです。
「そんなはずはない」とおっしゃる方もいるかもしれません。ですが、考えてみてください。例えば、あなた自身が見ないようしている問題 - 例えば、夫婦間の衝突 - に対して心の奥底で自分と伴侶を罵っているのに、あなたの大切な子供に人と仲良くする必要性を説いたところで、表面上はともかく内々には違和感を持って受け止められるでしょう。根っこにはあなた自身に対する不信感があるのだから、どんな表現の中にであれ、それを包含してしまうものです。これはほんの一例です。伝わるのは、あなた自身に対するあなたの受け止め方です。そして、それこそが一朝一夕では変えられないと申し上げているのです。
だからこそ、本来、生まれた時から自分がかけがえのない存在であることを無意識にまで染み込ませ、自分自身を大切にすることをあなた自身が日々実践するのです。よほどの極限状態でもない限り、自己犠牲のもとに大切な人を救う、というのはそうそう起こるものではありません!
そして、一朝一夕でできるものではない、ということは、裏を返せば積み重ね、浸透させて実現していくものだ、ということでもあります。原風景を蘇らせよう、という提案も、その一環です。積み重ねる、とは、日々対面する数多くの出来事に対して、自分を大切にすることを自問自答して行動していく(行動の中には自分に対してどう考える、どう理解する、自分と相談してどう解釈する、といった頭や心の中の動きも含まれる)ということでもあります。つまり、これはあなたが「意識して」「継続的に」習慣化することが求めらるものです。
まるで訓練のように聞こえるかもしれません。しかし、この継続で実現されていくのはとても気持ちがよい世界ですよ。気持ちいいといっても、バラ色のエキサイティングな世界、というよりは、もっと自然体で落ち着いて安心と未来へのかすかな予感を感じられるというような類のものです。なぜなら、それは久しく遠ざけていたあなた自身へ回帰すること、あなた自身を感じることに他ならないですからね。
遠い過去から現在まで、数えきれないシーンに五感を浸したその時々の自分という存在と一体化することを試みるうち、自分自身を周囲に振り回されることなく自然に大切に扱うようになります。そして、自然に大切に扱えるようになると、現在の出来事への対応も自分に寄り添って行うようになるのです。その時の自分はもうすでに、今まで切り離していた、あるいは粗雑に扱っていた無数の自分を味方につけることになるからです。
かつては自らを貶める言動を促す方向を向いていたベクトルは、自分を取り戻すにつれて自分が進もうとする方向へ向きを変え、自分自身を生きるための推進力となります。個人的には“癒す”という言葉は誤解が生じるので好きではありませんが、世の多くの“癒し”を求める人々が欲するものとは、本質的にこのようなものではないでしょうか。生きる中で育んできた数多くの自分自身との一体感、自分が存在していた場所や集団や人々への感じ方が変わって生じる緩やかな一体感、そして自分が自然に感じる幸福とか豊かな未来の幻想との一体感。それらはかけがえのない自分を生きるために最も大切で、そして自分だけが有しうる最大で最良の世界なのだと思います。
そして・・・・・。
こんなに長々と引っ張ってきておいて、どこかで聞いたような言葉を伝えるのもなんですが、たとえ「なんて月並みなことを言うんだ」「なんて地味なことを言うんだ」、と言われようとも、言わせていただきます。ここは原風景を取り戻すことと同じように、避けて通ることができないからです。
そう。
かけがえのない自分をしっかりと認識する作業に必要なこと、それは“自然体のまま独りでいられること”です。
最初にも同じようなことを書いたけれど、独りでいること、と耳にして、どう解釈するでしょう。ここまで読まれた方は、何となく答えを感じとっているかもしれませんが。
独りでいること、それは物理的に一人になることではないし、人を遠ざけることでもありません。人と話さないことでもないし、自己中になることでもないし、一人旅に出ることでもなければ、独身で居続けることでも離婚や別居することでもありません。意識して、仕事や趣味に没頭し続けることでもありません。
独りでいることとは、自分の七感(五感と直観(第六感)と想い(第七感:私の造語ならぬ追加語です))を信じて、常に自分が独立(孤立ではない)した一個の存在であることを意識し、自分を大切に扱うことを実践することです。外面的な状態とは関係ありません。逆説的ですが、人は人の中で生きていくものだ、ということをしっかりと認識できるのもこの時です。自分が一個の独立した存在であることを感じるとき、それがどれほど多くの連帯によって保たれているか、についても認識せざるを得ないからです。
独りで“ある”こと、と言わず、独りで“いる”こと、と記載したことにも目を向けてください。これは、例え無意識であっても、それが自身の“選択”によるものであることを伝えたかったからです。
独りでいることを始めると、最初は、苦痛の感情に苛まれる方もいらっしゃるでしょう。なんだかんだとやってしまっている周囲への批判は、要するに自己批判に過ぎず、その声を誤魔化すことができずに自分に突き刺さるからです。引きこもっている方、子供が引きこもっている親御さん、親が修羅場の家の子供、対人恐怖の方、両親の葛藤を背負わされている方、どうしようもなく憎む相手がいる方、仕事に行くのが苦しい方、身近に大切な人が苦しんでいるのを目にし続けている方、などなど。
皆様に知っておいていただきたいのは、そういった感情と誤魔化さずに対峙し、その先にあるあなた自身が求めていることを見つけ出すこと、です。
独りでいることを自ら選択し、日々の場面で自分に寄り添い、大切に扱うことで、自分では気づかないうちにゆっくりと、本当にゆっくりとですが自己肯定感が出来上がってきます。これは見事なくらい気づかないものですが、それが有効に作用するとき、切り離していたもう一人の自分との出会いが訪れます。本当は彼または彼女はずっと目の前にいてくれたのだけれど、灯台下暗し、ではなく、自分で光を当てることを拒んでいたために、傷だらけのままずっとそこに置き放してしまっていたのです。そんな自分ともう一度出会うのだから、見たくなかったはずの自分が胸を締め付けられるようにとても愛おしく感じられるようになります。
一人でも多くの方にそんな時が来ることを願ってやみません。
最後に、表題の「独りでいること」の出所について話をして終わりにしようと思います。
家族でノルウェーに赴任した、とある女性が著した本です。
その本の最初の方のページに、こんな挿絵があります。
野原で数名の子供がボール遊びをしている。それを見つめて、寂しげな表情で一人ポツンと立ちつくしている少年、手前の芝生では一人の少女が、柔らかな笑みとともに愛おしそうに猫を抱いて座っている。
「独りでいること」と題したその挿絵の説明に、こんな解説がついていました。
少年はひとりぼっち、少女は独りでいたい
この挿絵は、小学一年生の教科書から抜粋したものです。
独りでいること。7歳の子供に説明する、ささやかな選択の可能性。難しく考える必要はないと思うのです。例えどんなものであれ、自分の選択を肯定し、結果を受け入れることを繰り返す積み重ねこそが、かけがえのない自分を生きるための、補助剤よりもよほど大切な処方箋ではないでしょうか。
私たちは、現代社会の中で随分長く心の生活習慣病に侵されています。社会的な自分を大切にしようとする中で、まるで幾度でも取り換えがきく“モノ”のように自分自身を扱い、大切にしない働きかけを随所で行っています。社会の流れに身を晒す中で、いつしか身に着けた基準に沿った選択の繰り返しが、今の自分足らしめている、という現実を理解しても、その選択を繰り返すこと、その選択のために自分を貶めるような認識を続ける様は、まさに「習慣」なのです。
生まれて、自分を守ってくれる人々がいることを当たり前に感じていた頃、私たちはそんな“当たり前”という認識を媒介として、わざわざ表層意識に感じる必要もなく人を愛することができていました。そして、そういう感性を大前提として人生を生き続けようとしたはずです。その原動力は、自分と相談して選択した何気ない行動の積み重ねと、そこで育まれる自分自身を一体化し続けて、自分の存在を肯定する情動のエネルギーとすることでした。
残念ながら、社会の評価軸を自分の中に取り込むにつれてそれができなくなったり、その力が弱まったりして、無力感に陥ったり日々心を痛め続けたり、人を遠ざけたり怒りと憎しみに包まれたり、自己卑下したりという生き方になってしまった人が多いのは事実です。私を含めてそういった人々が根源的に行うべきは、自己肯定できるささやかな機会を積み重ねていくことでしかないのです。
今日やって明日結果が出るものではありません。
だからこそ、継続してやり続けることが必要なのです。
これは自尊心を取り戻すことでもあります。
自尊心については、いつかまた話をしたいと思います。
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