生きる基準はどこにある?

日々の棚卸

今ここではないどこか、

今の仕事ではない何か、

今いる人たちではない誰か。

 

悶々と、苛々と、鬱々と、

家庭生活を営み、

働き、

職を探し、

周囲の人たちと

コミュニケーションをとりながら、

あるいは人から距離を置いて

引きこもって日常を送りながら、

そうやって別の何かを

探し求めている人は少なくありません。

これではいけない。

こんな生き方ではだめだ。

そう感じつつ、空回りしながら、

今の場所ではないどこかを探している。

 

コロナ禍がもたらした

社会の大きな変化の予感

(一部は現実化してしまっていますが)の

ずっと前から、

自分の生き方に迷いを持ち、

このままの生き方でいいのか、

もっと別の人生があるのではないか、

少なくとも今のままでは嫌だ、

仕事、人の関係、収入、

いろんなものが気に入らない、

先のことが不安で、

それらをまとめると、

今の自分の存在が軽々しく感じられて

そんな人生は送りたくない、

そう感じている方が少なくない

という意味です。

 

自分の存在が、

社会の中で、

他者より軽々しく感じられる。

でもそう感じられなくて済むように、

どう生きていったらよいかわからない。

だから、

どこか、何か、誰かに、

基準を求めて、

今日もまた彷徨っている。

比較しなければいいとういのは

十分わかっているのだけれど、

人の中で働いていると、

どうしてもそうしてしまう場合があって、

そこで感じた負のインパクトに

常に苦しめられている。

結局、何を求めているのだろう、と。

 

そう、

何かをやるにしても、

何かを考えるにしても、

これからを生きる上で、

何か基準が欲しい。

実は多くの方が彷徨う根っこには

そういう渇望があるのだと思います。

自分は今どんな位置にいて、

自分が望む自分にもっと近づくには

何をどうすればよくて、

どうなったら

誰から

どんなふうに

褒められるのか、

貶されるのか。

お金の話であれば、

今いくらくらいあって、

これからどのくらい稼げて、

それは世の中でどのくらいの位置にあって、

人からどう見られているか。

 

厳しいなあ。

血を吐くマラソン。

そういう生き方をしているから、

そう生き方が必要な場所にいる羽目になって、

そういう生き方が必要な評価を

受けてしまっている。

 

一つだけ言えること。

よく言われることだけど、

答えは自分の外にはありません。

誰もがほんとは、

分かっているのだと思います。

外にない答えを探すために、

外を彷徨って

触診するように、

外側から自分の魂の殻に

触れ続けようとしている。

それだけなら間違いじゃないと思う。

残念なことがあるとすれば、

そこに求めるものがあることを

信じていないこと。

だから、気がつくと、

外側の力にひかれて

あっちにふらふら、こっちにふらふら。

 

今漠然と持っている基準が、

親に痛めつけられて根付いたものだろうと、

学校の画一的な教義によるものだろうと、

社会の荒波に翻弄されて身についたものだろうと、

それは関係ありません。

 

どこかで一度、

自分と向き合う必要がある、

それにつきます。

もう40歳だから?とか

体力がないから?とか

才能が感じられないから?とか

そんな問題でもありませんよ。

 

自分の中から、

これだと湧き上がってきたものは、

そんなことなど吹き飛ばして、

行動に駆り立ててくれます。

行動を起こし、他者と出会い続けることは

もう一人の自分と向き合うことです。

 

自分に大切な働き方、

自分に大切な仕事の見つけ方、

自分に大切な他者との付き合い方、

自分に大切な家庭の営み、

そして何より大切な自分を慈しむこと、

やがて自分の中に

求めるものが明確になってきます。

生きる基準とはそういうことではないでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『中央駅と大聖堂 in Finland』