被害者をやめる時

日々の棚卸

一昨日の夜にプチ花見に行ってきました。まだ少し早かったかな。缶ビール片手に遊歩道沿いを歩くと、花びらが夜空を背景にまばらに散りばめられてきれいでしたね。建物の影、北向きに植えられた木々はやはり花の発育が遅く、まだほとんどつぼみのまま。写真は東に面して植えられた木を写したものです。

 

さて、本題です。

前回、長所について書きました。

自分の中が長所で埋まって、短所が何もない人って想像しづらいですが、もしいたとしたら、聖人君主と呼ばれたりするのかな。

現実には、些細なことを含めて、自分の短所に起因しているかもしれない問題に対して、私達は何かと他責にして過ごしがちです(違う方、ごめんなさい)。

何かあるたび、グチグチとこぼしたり悪態をついたりするし、自分のことを棚に上げて人の批判に終始するし、それでもうまくいかなきゃシステムと世の中が悪い、となる。

お酒の場に限らず、街で、会社で、隣近所で、時も場所も様々ですが、こうなっていることは少なくないと思います。

こう書くだけなら、うまくアレンジしたらどこかのコントを見ているような想像もできて笑えなくもありません。

実際、上述のような他責、言い訳自体が悪いと言うつもりもありません。

こと、当人の身に関する限り。

ぶつぶつとつぶやく言葉が、届く周囲に与える迷惑や鬱陶しさはあるかもしれません。

でも、それでも、やっぱり。

悪いわけでは、ないのです。

全然。まったく。ほんとに。

 

問題は、そこではない。

それが明確にわかって対応できているのなら、本日のブログはお読みになる必要はないかと思います。

 

え?

周囲に迷惑かけても悪くないって?

カウンセラーの風上にも置けない?

心を扱う人としてそれはいかがなものかって?

 

確かにそういう人は決して周囲から褒められはしないかもしれません。ですが、それで当人の日常が滞りなく回り、大きな弊害もなく自分自身や大切な家族、友人らとの関係が続いていくのであれば、そういう生き方は誰に否定されるものでもないですし、誤解を恐れず言えば、大なり小なり誰もがしていることだと思うのです。あっ、あの人はそうかもな、という方、思い浮かびませんか?

いやいや、少なくとも、ボクは、私は、違います、と言いう方、もう1回ごめんなさい。

きっとほとほと迷惑をかけられて、自分はそうならないように気を付けている方々なのだと思います。だから、迷惑の元となった彼、彼女に代わって、すみません、と申し上げます。私自身、そんな生き物なんだろうな、と思い当ってしまうところがあるのです。

ただ、ある種の言い訳は、大切です。それによってほんの少しの間だけ、心の中に逃げ道ができて、例え追い詰められているものがナルシシズム的な自己であったとしても、そこに束の間避難させることで、その自己によって当人を支えるプライドが決定的に頽れることを防ぐことができるなら、言い訳も他責も度が過ぎない限りは庶民の知恵みたいなところがあると思うのです。

それが実は自分をとことんまで責めることになっていない限りにおいては、ですが。

 

これが問題として顕在化するのは、その人の日常が回っていかなくなる時です。

自分自身のことを自ら察知するのは簡単ではありませんが、それを知るには、その行為の裏側にあるものが自分自身と大切な人々を貶める役割を果たしてしまっていないか、を真摯に問いかけておくことだと思います。言い訳は言い訳でいい。でも、言い訳する自分をみじめでみっともないと思っている人もまた随分いるものです。

ひきつった、あるいは苦り切った笑みさえ浮かべることもできず、ちょっとした挨拶を交わすこともせず、愚痴や文句や悪態を明らかにずれたところに焦点を合わせて正論として振りかざしていないか、一方的に相手を痛めつけていないか、そして本当は自分の至らなさへの洞察や受け入れの不足といった根本的な部分から逃げていないか。自分を責める、とか貶めるとは、つまりそういうことです。

べらんめえ調の江戸っ子の腹の中が空っぽなのかは本人にしかわかりませんが、自他に屈辱を与えるような、あるいは陰険だったり残酷だったりとなっていないか、と言い換えてもいいでしょう。

昔、竹中直人というタレントがいて(今もいますが)、彼が演じていた笑いながら怒る人というギャグに大笑いした記憶があります。ねばならない自分と本心とがせめぎ合って表出してる人のことで、笑顔を見せる、というところを、正しいことを言う、と言い換えてしまうと何だか似てなくもないような気がします。

あれ自体はそこまで考えた芸ではないのでしょうが、結局のところ、ある種の言い訳という行為が如何に正当なものであれ、その延長上に自分の体を害し、自分の心を貶め、大切な人々の幸せを奪い、自分を含めた人の関係がおかしくなっているのであれば、少なくともその行為自体に本来の意味での正しさなどありません!

 

今一度、自分の本心がどこにあるのかを胸の内に求め、素に返ることを試みてください。この場合の素とは、素直、素顔、素心といった素だ。正直と言い換えても構いません。

その中には、きっと人に言うのがためらわれることもあると思います。

それを自分の中に認識して、そうならざるを得なかった思い込みと、その中で羽ばたいた想いとを蘇らせ、しっかりとかみしめてください。かみしめるとは、これも言い換えれば、その時の自分に寄り添う、抱き合う、ということです。

立派に認められたその時の自分はもう一人ではありません。人は味方がいない時、誰かに分かってほしくて言い訳をし、自分を追い詰めたくないから他責に走る。そして実はそれがもっとも自分を苦しめることになるものだということを忘れてしまっているか、理解できないでいるものです。

ですから、そうやって一人の自分が認められると、抑圧と否定に使っていたために害をなしていた被害者というキーワードで代表されるあり方が必要なくなる、自然にはがれていくのです。

被害者でいることは、ある意味とても楽です。

不安なのでしょう。怖いのでしょう。被害者でいることは、周囲がサポートしてくれる(と思い込める)し、かわいそうと同情してくれるし、そんな周囲の行為が自分の価値を守ってくれる(と思い込める)し、自分がそこに打ち勝つための試行錯誤をしなくても安泰(では全くないのだけど)だと感じられるから。

これ、恥じることはありません。

ただ、ああ私のことだ、と思われた方、逆説的なこのロジックは理解しておいてください。

 

被害者という感覚が自然に弱まっていくと、徐々に様々な関係性が回復していきます。その中で、もっとも恢復するのは自分自身の感じ方です。

『被害者であることをやめる』とこれまでにも言ってきましたが、やめるというより衣を脱ぐという方が適切かもしれません。

そこには素の心を見守る大人のあなたとともに、自分自身のまま生きていける人が誕生しています。