Sunday Evening in Metro

日々の棚卸

 

今年の夏は本当に暑い!

 

暑いと言ったら余計暑いだろ、

と言われそうだけど、

 

暑さに弱い身には、

もう本当に、何というか、

暑い!と叫ばずにはいられない…。

 

 

のっけから申し訳ありません。

 

そういうわけで?

お盆も終わって、親の墓参りも済んだので、

 

せめて予定のない日くらいは、

ひらすらエアコンの効いた室内にいようと、

先日久しぶりに家の中を整理していました。

 

もっとも、無精者であることと、

面倒くさがり屋のため、

片付くものもなかなか片付かない…。

 

気がつくと、

 

テレビやYoutubeを見ていたり、

整理中の本棚から昔の本を読みだしたり、

ベッドに横たわってうだうだしたり、

 

それはそれは、

もう本当にそれは効率が悪い、というか、

テキパキ屋さんからすれば言語道断というか、

 

兎にも角にも、整理整頓は進みません。

 

ああ、自分は片付けが好きじゃないんだな、

こんまりさんは本当に凄いな、

なんでこんなに片付けが苦手なんだろう、

 

そう考えながら、

法要で使用して部屋に立てかけたままの

父母の写真の表情が目に入りました。

 

母親は、家が多少散らかっていても

問題ないと言って憚らない人でしたが、

 

実際、掃除機をかけたりした後も、

なぜか散らかった印象がそのまま残り、

 

几帳面だった父がいつも

腹を立てているような、

 

そんな家でした。

 

父母の衝突は哀しかったけれど、

そういえばそんな雰囲気になるとよく、

家を抜け出して、

 

友達と家に泊まりに行ったりして

しまったこともあったな、と

ついでにそんなことをも思い出しました。

 

自分は母親似だからしゃあないか、と

愚にもつかないことを言い訳にして、

お昼過ぎには片づけを終了?としました。。

 

以前にも書きましたが、

かつては自分を苦しめた

原家族の過去を思い出したとき、

 

その頃に熱中したことや、

一緒に友達と遊んだ記憶が、

甦ってくるようになった今では、

 

懐かしい思い出です。

 

 

話を整理整頓の時間に戻すと、

 

腹が減ったなと思いながら、

遅々として進まない整理整頓の途中、

大昔の日記が出てきました。

 

正確に言えば、

そこには昔からのその手のものを

まとめておいていたので、

 

出てきた、ではなく、目に入った、ですが、

ともかくも30年前の、すっかり色あせた紙に

殴り書きの言葉が並んでいました。

 

標題の英文は、その一つです。

 

何で横文字なんだと言われても困るのですが、

それはともかく何ページではなく

何冊にもわたって、

 

日記というにはぶつ切りの言葉で

文章のかけらがひたすら

記載されていました。

 

ですので、日記というよりは、

その場、その時に考えたことを記載するという意味で

メモと言った方がいいと思います。

 

あの頃から今まで、

私は思いついたことをメモ書きする

習慣があります。

 

世に携帯が出てからは楽になりましたが、

あの頃はメモ帳に極細鉛筆を挟んで、

何か思いつくとメモをする、

 

そんな若造でした。

 

なぜそんなことをしていたのか。

 

時々書かせていただいていますが、

原家族がバラバラになる中で、

何をどうすれば、

 

この苦しみ、辛さ、混乱から

抜け出すことができるのか、

大切な家族を救うことができるのか

 

今のままでは自分は愚か家族誰もが苦しみ、

このままおかしくなってしまうばかりだ、

それを修正する手立てがわからない、

 

何かに答えが書いてあるのか、

どこかに隠れたヒントが潜んでいるのか、

それもわからない、

 

そんな中で自分なりに悩み、

限られた能力をフル回転して、

何か少しでも良くなる可能性の素を

思いついたなら、

 

それを実行するなり、

どこかに出かけるなり、

誰かに会いに行くなり、

 

何でもいいから試そう、

このままでは本当に持たない、

 

そんな切羽詰まった日々が生み出した

習慣でした。

 

標題の『Sunday Evening in Metro』

 

なぜ日曜の夕刻に地下鉄に乗っていたのか、

今は思いだすことができません。

 

書いてあるのは、

 

いつも通り?体調が良くないこと、

 

人生が終わってしまうような

心細さと焦りがあること

 

自分を勇気づけようとしても

効き目を感じられないこと

 

親の不幸から生じたであろう壁を

崩せそうもないこと

 

といった、読んでお分かりのとおり、

それを言って、それを書いて何になる、

それが何のヒントなるというのだ、

 

そんな言葉の羅列でした。

 

振り返れば、メモ書きの内容は、

嘆くばかりだったり、

明後日を向いたアイディアだったり、

 

そんなものばかりが書いてあります。。。

 

長い歳月が流れたの後で

それらを読み返した時、

ただ、懐かしい、と思いました。

 

まるで自分で苦しみに留まろうとしているようで、

頓珍漢な洞察をしていて、

 

きっとそれを事情の知らない誰かが読めば

鼻で笑うかもしれないし、

 

格好悪くて、示唆のかけらも感じられない…。

 

そんなことの繰り返しの日々でした。

 

ではそんな日々は、意味がなかったのか?

無駄なあがきだったのでしょうか。

 

今わかるのは、無駄ではなかったということ。

 

自分なりに新しい世界を見定める

手探りの期間だったのかなと思うのです。

 

求めるものがあって、

(混乱から抜け出す術、抜け出した世界)

 

それがどこにあるのか、

どうやったら手に入れられるのか、

方法はあるのか、

どんな知識が必要か、

誰か知っている人はいるのか、

そもそもなぜこんなに苦しいのか

 

そんなことを一瞬一瞬必死に考える

そんな時期でした。

 

求めよ、さらば与えられん、

ではありませんが、

 

その試みが何かを手繰り寄せ、

何かに気づかせ、

そして何か、誰かにつながる、

 

そこで、感銘を受けたり、

新しい考え方に驚いたり、

それらが当たり前の人と出会ったり、

 

そうやって少しずつ、

自分の世界、人生は変わっていったのだな

ということです。

 

今あなたが苦しんで混乱していて、

何をしたらよいかわからないほど

深い闇の中にいたとしても、

 

それに対する答えそのものを持っている

別の誰かはいません。

 

あなたが探し求め、何度もずっこけ、

それでもわらしべをつかみ、また溺れ、

 

今度は別のわらしべをつかみ

すると新しい世界と出会い、

そこでフィットしていない自分を知り、

 

時に腹を立て、

でもそのままでは元の木阿弥だと考え直し、

また新しい世界に自分を置く術を試し、

 

そうやって

少しずつ人生が今の状態から“ずれて”行く、

 

そうやって必要な場所にたどり着きます。

 

その間に起こる、涙、笑い、悔しさ、喜び

安らぎ、希望、そんな感情の連続こそが

あなた自身の人生そのものです。

 

今までが良くなかったから、

普通では起こりえないひどいこと

ばかりだったから

 

もう自分がどう動いたところで

これ以上良くなることなんてない、

良くなったと思ったらまた闇に戻るだけ、

 

などという、

理由なんて実はどこにも存在しない、

そんな思い込みは

 

どんな不格好なトライアルよりも

堂々巡りの試行よりも

無駄な時間です。

 

 

ほんの一部でも、日記の内容をさらすのは

とても恥ずかしいけれど、

 

今を生きる何かヒントに

なってくれればと思います。

 

小手先の知識や短い期間の活動だけで

何かが良くなるくらいなら、

どんなにいいかしれないけれど、

 

継続的に続ける中にこそ、

新しい生き方の芽があるもの。

 

あなたが今ここにいて、

このブログを読んでいる、

 

それ自体が新しい世界を手繰り寄せる、

一つの可能性であること、

世界は少しずつ自分の手で変えていけることを

 

信じてください。

 

ー今回の表紙画像ー

『親水護岸より』

飼っているウナギの餌を取りに来たら、小さな子供二人を連れた家族連れと若者2人組がほとりに陣取っていました。いつも静かな川ですが、人がいるというのは賑やかですね。