これまでの自分にもっと感謝しよう

日々の棚卸

昔から気になっていた武田鉄矢さんの言葉。

『自分を励ましてくれるのは過去の自分だけだよ』

私は見ていないけれど、今から10年近く前のお正月の特番で流れていたそうです。

いい言葉だな、と思うと同時に、もう一言あったら、とも思いました。

 

この言葉は、お金を稼ぐことについて討論された際、武田さんと若者との間で出たやりとりの一節だそうです。その文脈は以下の通り。

(若者) 「援助交際だろうが何だろうが稼いだお金は嬉しい」

(武田) 「寂しい考え方だな。もうちょっと根性持とうよ

これからずっと生きていくんだけどさ、

自分を励ましてくれるのは過去の自分だけだよ。

みんな援交やってたけど、自分はやらなかった。

これはすごい自信になるんだよ。

みんな銭欲しがってたけど、俺は銭より友情を選んだ。それだけだよ。

俺はあんとき19だったけれど、

しっかり行動したっていうのを過去に一つでも持っておくと

それが30歳、40歳になっても励ましてくれるんだ。

(省略)」

 

素直に受け入れられる人は、それでいいと思います。

私はと言えば、先にも書いた通りで、素敵な考え方だな、と思うと同時に、では過去に援交していた女の子はこれをどう受け止めたらいいのだろう、というものでした。

別に、援交でなくてもいいのだけれど、心を扱う者の端くれとして、そこに属しえない者への言葉を聞きたい、ということなんですね。それは、原家族のことで思い悩んで仕事も手につかず、人間関係から引きこもって自分を責めてばかりいた当時の私に向けて、私以外の方がどういってくださるのかを聞きたかったという想いにもつながるのかもしれません。

 

家族の形は様々ですが、精神医療や心理学で機能不全家族(=Dysfunctional Family。親が本来の親としての機能を果たさない、家族内に秘密が多い、近隣の付き合いが乏しく人の風通しが悪い、等)と言われる家族のあり方には、以下の項目(の一部)が大きく欠けているという共通点があります。

親は

・子供の面倒をみる、

・生活費を稼いでくる、

・世の中には一定の秩序があってそれを家族の中でも体現している、

・理不尽な暴力を振るわない、

・性的な関係性の部分を子供としっかり分離する、

・栄養のある食事を与える

・家を安全な場所とする

‥‥‥‥

 

すべての項目を実現することはそれなりに大変だとは思うのですが、これらが大なり小なり守られていることが、『自分を励ましてくれる過去の自分』を力強く生み出す側面はあるように思えます。

「根性を持とうよ」という言葉は、上記の援助交際のことで言えば、その行為がおかしいということを当人が認識していて、でもお金が欲しいからやっているのだ、という解釈になるわけですが、現実には自罰・自傷行為として行っていることも多々あり、援交はやらない代わりに手首を切っていたり、拒食過食に走っていたり、アルコールに溺れていたり、あるいは借金を重ねていたり、といった出方をしていたりします。何せ、機能不全家族の親は自分のことを不幸ととらえている人が多く、そんな家で育つ子供は親の不幸に罪悪感を抱えて生きるようになりますから。何か悪いことをして罪悪感を持つのではなく、理不尽な罪悪感を持ってそれに見合う行動をする、というのが機能不全家族における子供たちの典型的な行動なのです。

 

“普通”、を、平均、と読み替えると、何もかもが“普通”の家庭というのはおそらく存在しないでしょう。きっとそれなりに優れているところがあって、劣っているところがあって、時々その劣っているところがかなり逸脱していて、子供に計り知れないダメージを与えているところがある。一時、そんな人々のためのカウンセリングなどでは悪者探しとして親があげつらわれていました。これに対し、当方ではそれが事実かどうかはともかく、そうやって悪者を外に求めていても問題は解決しないという立場を一貫してとってきました。

ただ、悪者がどうかという話はさておき、そこで育った子供が社会を生きる多くの場面で、

・“普通”と考えられているものが何かがわからなくなっていたり、

・“普通”というものが現実にはあり得ない理屈上の産物だと思い込んでいたり、

・自分はとても“普通”いわれるような人ではなく低能な存在と受け止めていたり、

そういった若者が、あるいは中年が、いや、最近ではよぼよぼのお年寄りまでもが、ともすれば社会的な道を踏み外していたりします。私自身、本当にたまたま外側から見ればまともっぽい社会人に見られていますが、これまでにも述べてきたように、端っこの方で陰々滅々と生きていた時期があって、その頃は人が歩むときには当たり前に踏ん張れるはずの固まった地べたを感じることができず、際限なく沈んでいく液体の中で何十キロもの重りをつけられた手足をばたつかせて、他者の後を追っていた感覚を持っていました。もともとが努力と根性で生きてきた側面があるのでですが、これ以上の根性を見せろということになると人をやめるところに行き着きかねない状態でした。

だからでしょうか、こういった時に見せる「根性」なる言葉がどうにもしっくりこないというか、ずれているように聞こえたんですね。

だいたい考えてみれば、ティーンの女の子が仮にお金をもらえるとしたところで、何を好き好んで『むさい/くさい』おっさんに抱かれようとなんてしますか。いや、中にはそういう子もいるのかもしれないけれど。

 

援交、この正当化はいけない。

これは外せないことです。

 

でも、過去の頑張った自分が今を励ましてくれる、というのは、こと子供たちについて言えば、その外側を包む世界(家族)が平安に落ち着いているからこそ言えることではないでしょうか。この場合の平安とは、両親が仲睦まじくいつもルンルンという意味ではなく、世の中の成り立ちが疑われるような言動を行いながら、人を傷つけていない、という意味です。逆に言えば外側がおかしな状態だからこそ、そこにいる子供もまた親がおかしい理由を自分に求めるというウルトラビッグミステークな受け止め方とともに、おかしな方向へ進んでしまうという現実があるのではないでしょうか。

 

繰り返しますが、援交、というより自他を傷つける行為は正当化はできるものではありません。

 

では、大人の年齢になった私たちが、勇気づけられるはずの過去に、他者から「根性持とうよ」と言われてしまうような行いがあったとするなら、それはどう解釈すればいいのでしょう。

 

私ならこう思います。

「今の自分になれたのは、これまでの人生を生きてこれたのは、過酷な環境の中で過去の自分が何とか生き抜いてきてくれたから。少しずつ自分を取り戻そうとしている自分になってくれたから」

もちろん、今の自分を受け入れることが進んでいる必要はあります。

ですが、こう考えると、もう自分への感謝なくして何の感謝か、そういうことにならないでしょうか。

 

本文中、あたかも武田さんの言葉が不十分であるかのように読めるようでしたら申し訳ありません。全くそんなことが言いたいわけではありません。

別段フォローするつもりはありませんが、私は武田鉄矢は面白くて好きです。『贈る言葉』CD持ってます。今でも聴きます。このブログ書く前にも聴いて、ウルッときてしまいました。彼を北京原人と呼ぶ輩もいますが、私は結構男っぽい、いい顔立ちをしていると思います。

 

本論からずれてしまいました。彼の発言の真意をくみ取れば、私の最初の問い「そこに属しえない者への言葉」として、きっと武田さんはこう言ってくださるのではないか、と推察します。

「もう嫌だろう、そんなことするのは。ここまで生きてきたのは、お前が考えるよりずっと自分なりにしっかり生きてきたからなんだよ。もうそんな自分イジメるような面倒くさいことはやめて、戻っておいで」

 

ー今回の表紙画像ー

『散歩で見た夜明け1』