身体は自分そのもの

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最初に少し、

涙を流すことについて

話しをさせてください。

 

泣くことについて、です。

 

初めて泣いた時のことを覚えている人は

まずいないですよね。

 

生れたばかりの頃はもちろん、

幼稚園・保育園に入る前でさえ、

大泣きしたことを含め、

 

おそらくほぼ全ての人の記憶は

忘却の彼方になって

しまっていることでしょう。

 

でも、泣くこと、特に大泣きして

身体全身を震わせて涙を流すことは

年齢如何によらず、

いつも同じ“感覚”を生じさせます。

 

文字通り、

身体の中のあちこちの“感覚”を

ふるわせてくれるんです。

 

21世紀に入って、確実に、

心のことが注目されるようになったのは

とても喜ばしいことですが、

 

その陰で忘れてはいけないことが

忘れられているような気がします。

 

 

感覚という言葉。

感じ覚える、ということ。

五感で感じて、身体に記憶される。

 

繰り返しになりますが、

心の底から感情を震わせ、

涙を流したときのあの感覚は、

昔も今も変わることはありません。

 

大人になると、

そして世の様々な理が身に沁みると、

涙を流す理由は変わるかもしれません。

 

過去に遡りながら、

身体を震わせるほどに涙を流したのは

どんな場面だったろうかと振り返っても

時間が経つほどに思い出せなくなりますが、

 

泣くときに生じるあの“感覚”は

私たちの身体に、

常に同じ“反応”を生じさせるはずです。

 

きっと朧に、

嬉しさや感動の涙か、哀しいそれかは

記憶しているかもしれませんが、

その場面事態の記憶は、

驚くほどに曖昧ではないでしょうか。

 

不思議なことに、

五感の記憶が曖昧であっても

身体に生じる印象だけは鮮明で、

 

嬉しさにせよ、

哀しさにせよ、

切なさにせよ、

情けなさにせよ、

歓びにせよ、

 

確かにその感情がそこにあったこと、

そして素の自分としてそこに居たことを

思い起こさせてくれます。

 

 

大人になると、

泣くこと、涙を流すことが

少なくなります。

 

特に、思い切り泣く、大泣きすること、

心の底から号泣することがなくなります。

 

20代くらいまではまだ

そこそこ涙を流していた人でも、

30代に入って時間が経つと、

その傾向は加速するようになります。

 

少し冷静になってみればわかりますが、

決して大泣きする場面、出来事が

なくなったわけではないはず。

 

しかし、日々の様々なものごとを

 

疑い、

怖れ、

避け、

効率化を求め、

お金を求め、

 

そして、自分自身の本音を仕舞いこんで

世の評価なる、実態などないはずの何かと

取引きをするようになるにつれて、

 

涙を流す機会もそれを許容するマインドも

減ってきた、あるいは減らしてきた、

というのが本当のところではないでしょうか。

 

そうやって生きているうちに、

次第に、涙が遠ざかり、

その傾向とコインの裏表にある

歓びの感覚も麻痺し出し、

 

いつしか心の底から、

泣くことも笑うこともできない

自分が出来上がってしまいます。

 

だから、

もっと、

本音の自分を大切にして、

自由に行きましょう

……

 

と、いう話ではありません。

 

そんなことは誰しも、

(忘れていることはあっても)

言われなくても

痛切に感じているでしょうから。

 

最初に述べたこと、

鮮烈に覚えている、

涙を流した

 

あのシーン、

あの経験、

あの懐かしさ、

 

あるいは

 

二度と味わいたくない

あの胸の痛み、

呆然自失の感覚。

 

それらをなぜ、

そこまで覚えているかと言うと、

 

生理現象レベルで

体が記憶しているからです。

 

生理現象というと、

言い過ぎだと思われるかもしれませんが、

 

胸が張り裂けるほど、

頭の中が真っ白になるほど、

全身が感動で震えるほど、

 

涙を流していたことを思い出してください。

 

そこには、

その反応を起こし、

エピソードとして

記憶する『身体』があるのです。

 

もう一度。

 

あなたそのものの身体があるのです。

 

あなた自身があなたにとって

最も親密な人であるように、

あなた自身のオリジナルは

まず身体なのです。

 

私たちは何かにつけてつい、

発想とか思想とかを

個性と考えがちだけど、

 

養老氏も言っているように、

個性、つまり、あなたそのものとは

ずばり身体のことです。

 

感情の入れ物であり、

媒介物でもある身体が、

弱っていたり疲れていたりすると、

 

あなたらしさを取り戻すことも

あなたらしく生きることも

難しくなります。

 

私たちが体を震わせて涙を流した頃、

私たちの身体は成長期で、

様々な感情をダイレクトに感じ、

外界に表出することに

十分耐えうるほど体力がありました。

 

ですが、

 

社会に出てある程度時間が過ぎると、

精神的なプレッシャーとともに、

肉体的な衰えが始まります。

 

そんな日々の中で、

身体が限界を超えて疲れていたり、

弱っていたりすると、

 

今を楽しむことも、

今から逃げることも、

今を利用することも、

難しくなります。

 

考えても計画を立てても

動くことができなくなる。

 

身体が十分でない時、

得られる思考も感情も

停止したり暴走したり歪んでいたりして、

 

大切な自分自身を生きること自体が

とても困難になります。

 

大切な身体、

愛しい身体、

魂の入れ物としての身体、

あなた自身である身体。

 

あなたが今の人生に満足していないとしたら、

それは感覚を取り戻すことからだと

私は考えています。

 

そこにはいつも申し上げているように、

切り離してしまったあなたそのものを

もう一度一体化するとともに、

 

年齢相応に健康な身体を

取り戻すこと、維持することです。

 

そのためにできることはいくらでもあります。

 

頑張り過ぎないことはもちろんですが、

 

運動したり、

ゆっくり休んだり、

栄養のあるものを食べたり、

大切な人に触れてもらったり、

 

そうやって身体を慈しむのは、

心を慈しむことと同じくらい

大切だということを

わかっていただけたでしょうか。

 

心の平安のために、

身体を慈しむこと。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『柿』

秋は大好きな柿が食べられて嬉しい。

大倉山にでむくことがちょこちょこあります。

丘の上から街灯りを見ていると、たくさんの

人たちが暮らしていて、それぞれの人生を

生きているんだなあとしみじみ思う。。。