過去は基準ではなく生きる手段

日々の棚卸

 

叱責が続く場所に

行かざるを得ない日々、

 

抑鬱と無気力が

孤独な時間を継続させる日々、

 

弱さと不甲斐なさに襲われる自分に

やりきれない日々、

 

そんな日々が続くと、

生きる力を感じられなくなる。

 

それがますます、自分を追い込み、

今どこにいるのかさえ、

見失ってしまうことがある。

 

でも、

疲れた体と疲れた感覚に陥りながらも、

 

例えば、

部屋の掃除で偶然目にした、

子供の自分を撮った写真に、

 

例えば、

仕事帰りの商店街を歩いて、

匂ってきた揚げたてのコロッケの匂いに、

 

例えば、

飲み会から解放されてひとり、

不意に見上げた年末の夜空の凛とした美しさに、

 

例えば、

真夏の昼下がりに近所の学校のプールから

聞こえてくる子供たちの歓声に、

 

例えば、

街を歩く家族連れとすれ違い様、

子どもが父母に放つおねだりの言葉に、

 

例えば、

思い悩む気分を変えるために出向いた、

町外れの川べりで耳に届いたせせらぎの音に、

 

素朴に世界を信じていた時間が、

 

人と料理を食べるおいしさの味覚が、

 

ささやかな夢を描いていた夜が、

 

魅力的な浮遊感に遊んだ感覚が、

 

甘えられることの嬉しさが、

 

人の世界の横で変わらない自然の親しさが、

 

ふわりと、胸によみがえり、

じわりと、体の中が満たされ、

どんよりと淀んでいた感覚が呼び覚まされ、

 

自分が当たり前にそこにいた感覚、

そこにいたことが当たり前であった感覚を

思いだすことがある。

 

嘘なんてどこにもなかったし、

それは今も同じだということを

教えてくれる。

 

意識的に遠ざけていたのか、

なかったことにしていたのか、

原因はわからないけれど、

 

結果として忘れてしまっていた、

 

もしかすると、

これ以上大切なものはないのでは、

と感じられるほど

 

かけがえのないものを

取り戻したことを意識できることもある。

 

そして、

 

自動車が動くために、

ガソリンや電気が必須であるように、

 

これからの人生を、

自分の足をしっかりと地に着けて歩むために

必要な想いであることを知る。

 

これがあるから必ず成功する、

というわけではないけれど、

 

これを蔑ろにしたまま、

自分が望む人生を生きるのは難しい。

 

心の原風景。

 

 

これまでにも述べてきたように、

 

誰もが持っている過去の中で、

大切な心の原風景は、

 

今を生きるあなたの感覚の芯と

魂の信を型作り、

 

ともすれば、苦しみ辛さに

崩れ落ちそうになるあなたを支え、

 

どんな状況にあっても、

自分を簡単にあきらめることなく、

今を生きる力になります。

 

時には引きこもることができる、

避難場所にさえもなりえます。

 

ただ、この想いは、空気や水と同じように、

当たり前に与えられてしかるべき、

と思っている人が少なくなくて、

 

そんな人が不幸に襲われたり、

慢性的にうまくいかない日々が続いたり、

無理を重ね続けたりする中で、

 

自らに存在しているはずの大切な風景を、

 

もう終わってしまった昔のことだ、

あれは結局フェイクだった、

二度と起こりえない時間だ、

 

と理屈をつけて、

 

自ら維持しようと努めることなく、

これからを生きる手段を、

心の奥深くに眠らせてしまいます。

 

ですが、あなたにとっての大切な

かけがえのないそれらの感覚は、

 

いつもではなくてもいいけれど、

意識して生かしてあげることが必要で、

 

それが同時に、

先に述べた通り、

芯の中に信を宿して

 

仕事上の叱責が何だろうが、

嫌な相手にびくつこうが、

変化を感じられない日々に悩もうが、

 

自分を信じて生きる手段になってくれます。

 

 

過去は、生きる手段です。

 

決して、ものごとを悪い方向へ

解釈したり、予想したり、あきらめたりするための

基準として使うものではありません。

 

うまくいかなかった過去ばかり取り上げて、

今度こういうことが起こったらと

シミュレーションばかりするのは、

 

確かに、

人間に備わった本能のようなところが

あるのかもしれません。

 

しかし、私たちに起こった出来事は、

その時々の偶然に左右されもします。

 

ですから、人によって、

同じ時刻、同じ環境にありながら、

 

良い経験をした人もいれば、

悪い経験をした人もいる。

 

でも、それはあくまで一つの出来事にすぎず、

それが未来永劫あなたの人生を

支配することはありえません。

 

もし支配されるとするならば、

それは大切なものを見逃しているから。

 

あるいは、

良いことは勝手に与えられると

高をくくっているから。

 

あなたの過去は、良くも悪くも、

あなた自身の過去です。

 

今この瞬間に他の誰かが、

ほら、人生はこんなに悲惨なものなんだよ、

と導いているわけではありません。

 

裏を返せば、

私たち誰もが、私たちの中に眠る力を、

大切な心象風景の形で有している、

 

そう言うことができます。

 

朝起きて、

朝ご飯を食べて、

学校に行って、

 

友達と遊んで、

本を読んだり音楽を聴いて、

映画を見て、

 

運動をして、

だべって、

喧嘩もして、

 

炬燵で暖まったり、扇風機で涼んだりして、

夕飯を食べて、

テレビを見て、

 

夜更かしして、

旅行に出かけて、

チャレンジして、

 

泣いて、

笑って、

怒って、

拗ねて、

 

街を駆けまわって、

海や山に繰り出して、

 

恋の予感があって、

恋をして、

誰かと一緒に歩いて、

 

ぐっすり眠って、

………。

 

そんな連綿と続く日々の事細かな風景を

一つ一つ丹念に思いだし、

 

その時間と空間の中で、

感じ、考え、佇み、ふけり、想い、

存在していた自分と言う存在。

 

その時々の嘘偽りのない感覚を

取り出すことができるのは、

他の誰でもない、あなただけです。

 

それがしっかりできるようになると、

なぜ今ここにいてこんなことをしてるのか、

これからどうすべきか、

 

必然的に湧き出してきたり、

直感的にこうしてみよう、となります。

 

理由はどうあれ、これまでのことは、

良くも悪くも、

全て、あなたが決めたことなんです。。。

 

自分で決めたことなんだから、

自分で変えることができます。

 

自分で変えることができることを

信じられるようにもなります。

 

それが、今日と明日を生きるための

新しい力となって、

心と魂に宿ります。

 

こんな素敵なことが生きる力になる世界。

だから、もっと自分を生きていたい。

 

過去をそう使えるようになった頃、

あなたはきっと、

そう感じるようになります。

 

ー今回の表紙画像ー

『10月のテナガエビ』

近所の川では冬でも生息しています。唐揚げにすると、とてもうまい。

まばらな観客の小さな映画館で見てきました。

今までの作品が違って見えてしまう気がするのは、私だけでしょうか。