平安の祈りを繰り返し実行しているか

日々の棚卸

 

『神様、私にお与えください

変えられないものを受け入れる落ち着きを

変えられるものを変えていく勇気を

そして、二つのものを見分ける賢さを』

 

有名な平安の祈り(セレニティープレイヤー)です。

二ーバーの祈りとも呼びます。

 

後述しますが、最初に唱えられたのは

紀元前のことだそうです。

 

この祈りの言葉は、20世紀半ば、

医療機関では救われなかった

アルコール依存症の人々が、

 

アノニマスグループの会合などで

互いの胸の内をシェアした後、

唱えるようになった言葉だとか。

 

精神科医の斎藤学によれば、

紀元前500年ごろのイタリアの哲学者の

『哲学の慰め』に由来するそうです。

 

この哲学者ボエティウスは、

東ゴート王国の執政官でしたが、

東ローマ帝国との内通を疑われて

獄死したと言います。

 

『哲学の慰め』は獄中で書かれた

弁明の書でした。

 

アルコール依存症者らにより、

近代社会に改めて広められた言葉ですが、

あらゆる依存のもとに横たわる

感情に対する無力を認めていない人々へ

パラドックスを投げかけています。

 

感情の暴走=体の反応が

飲酒を欲し、

過食を欲し、

薬物を欲し、

誰か弱いものを支配しようと欲し、

自分を痛めつけ、

車を爆走させ、

それらに耐えられず無感覚になり、

引きこもり、

コミュニケーションを拒否し、

……

それらを病気と捉えてしまう。

 

そんな時、平安の祈りを思い出すと、

感情の暴走=体の反応が、

職場の上司の罵声や父親の理不尽な態度によって

湧き起ってきたなら、

 

それは変えられないものだから

当座は受け入れる。

 

もし彼らが彼ら自身のことを差し置いて

自分のことを頭のいかれたやつと認識するなら

 

それも変えられないものだから

当座は受け入れる。

 

感情の暴走=体の反応がトリガーとなって、

アルコールややけ食い、借金や薬物といった

方向へ走りたくなるなら、

 

そういった欲求自体もまた受け入れるしかない。

(受け入れることと、実行することは全く別です)

 

しかし、変えられるものもあって、

そんな状況で自らを容赦なく叱責し、

自分を貶めようとする自分自身を変えて

慰めることはできる。

 

罪悪感を抱いていることに気づき、

そんな自分に寄り添うことはできる。

 

そういったことです。

 

そういう意味では、

アルコール依存と言うのはとても

わかりやすい症状です。

 

アルコール依存症者が

アルコールと言う嗜癖物との“格闘”を

やめることによって、

 

望まない人生の場所で、

望まない“格闘”をして、

望まない生き方をしている現実に気づき、

 

生きていく上で本当に必要なことは何か、

自分が求める本質は何か、

最も大切なことは何か、

 

それを感情に圧倒されそうになる場面で

この祈りを口ずさみつつ、

自らを振り返っています。

 

感情に圧倒される以前に、

何かに迷った時には

私も唱えるようにしています。

 

 

今年の5月は、

例年より暑い日々が続いていますね。

 

加えて、先週金曜日の午前は大雨でした。

 

そんな嵐のような空を眺めながら、

昨年の似たような嵐のときに

写真を撮ろうとしたときのことを

思い出してしました。

 

暗い空に稲光がして、風が吹きすさび、

そんな、いかにも嵐だという外の風景を

アパートの通路から写真におさめようとしたのだけど、

どうもうまく取れない。

 

見渡す範囲に草木が見当たらず、

大雨の中、傘をさして外に出る気にならず、

でも何としても絵だけは取りたい!

 

私は変に意固地なところがあるんです。。。

 

動画だと簡単に取れるんだけど、と、

モードを切り替えようかと思いつつ、

ここはあきらめるべきか、

それとも粘るべきか、と

しばらく自分の中で押し問答…。

 

気がつくと、

ふと自分の日常を何とはなしに

振り返ってしまっていました。

 

私たちの日常は何かにつけて、

立ち止まる必要があるときと、

動く必要があるときがあります。

 

どちらが大事、とか、優先、とかはなく、

当然どちらも必要で、

 

立ち止まったがゆえに気づくことがあれば、

動いて感じることもある。

 

不思議ですね。

 

一瞬の白昼夢が顔に降りかかる雨粒で醒めた後、

それを見分ける知恵が自分はついたろうかと

思いました。

 

この発信も、

痛いおじさんの知識馬鹿の内容に

陥ってなければいいのだけど。。。

 

前半の文章は、そんなことから

前世紀末に学んだことを

少し振り返ってみたものです。

 

平安の祈りが示唆する生き方は、

誤解を恐れずに言えば、

おそらく全ての人々に必要だと思います。

 

この祈りを通して、

それまでことあるごとに、

 

生まれ育った劣悪な環境や

受けた数々のひどい出来事、

不幸、不遇、不運に見舞われた自分という

世界へ逃げ込んでいた反応から、

 

本当に苦しんでいる自分と出会い、

その自分を受け入れられるのは自分であり、

問題の本質に目を向けて

自分を解放することで、

 

人の関係も、仕事・働き方も、

選択の仕方さえも変わる、

ということを身をもって感じ、

経験するようになります。

 

この祈りの言葉で全てが変わる、

とは言いません。

 

ただ、私たちが変化を続けるための

有力な手段であり、

変化の窓口となることは

間違いありません。

 

ー今回の表紙画像ー

『木漏れ日の林』

GWに某お寺の説法会に出かけてきました。暑い日で、境内の脇から広がる林を見上げると木漏れ日が輝いていた。リラックスできますね。