私たちは落ち込むと何もしたくなります。
私もそうですし、
あなたもきっとそうでしょう。
仕事でへまをして叱られて、
友達のさりげない一言が胸に刺さって、
気にしている体の部位をおちょくられて、
職を失って、
恋人にふられて、
一人になって、
それは誰だって落ち込みますよね。
仕方がないです。
もちろん、
腹を立てたり、
泣いたり、
文句を言ったり、
人によって反応の差はあるでしょうが、
それは当面のこと。
やっぱり根っこではがっくりと
落ち込んでいます。
それは人の正常な反応です。
辛いことがあって、
ウキウキして喜びはしゃいでいたら、
その方が危ない。。。
心・精神の病とは実は人の正常な反応が、
ある一定の閾値を超えてそう呼ばれるのは
皮肉と言えば皮肉ですね。
さて、
落ち込むことが正常だと言いました。
なぜでしょう。
期待が外れて哀しくて、
代謝(と連動する心=情動)が停滞するからです。
よほど危険な状況ならともかく、
そうでなければ、ちょっとお休みしよう
ということなのでしょう。
私たちの心身は、ほんとによくできていますね。
この落ち込みの症状、
時に、日常生活が成り立ちづらいほど
激しく恒常的に続くものがあります。
時にはそこから鬱やBPDのような症状に
発展してしまうことさえあります。
それほどの落ち込みが続くということは、
体か心か頭か、あるいは他のどこかが
おかしくなってしまったのでしょうか。
★
私たちの心身はよくできている、と
先に述べました。
それが正しいとすると、
この、長く、深く続く落ち込み、
時には心の病にさえ追いやってしまう
その落ち込みは何かの原因・理由がある、
ということになります。
それは、
肉親や親しい誰かが思いもよらない状態で
他界してしまったとか、
家族が崩壊してしまったとか、
過去に大人から残酷な仕打ちを受けたとか、
お金が散財されて生活できなくなったとか、
ずっと嘘を聞かせ続けられてきたとか、
つまり自分を含めて誰にも当たり前にあると信じていた
存在や風景や人の関係、扱い、未来が
長い時間の間に徹底して叩きのめされてしまった、
そんな経験が重なって、
何かをするかすかな元気も見いだせず、
自分も世界も信じられず、
やがて人とつながることもできなくなる、
それでは、
静かで激しい落ち込みが
恒常的に続くのも当然です。
自分を形作っているはずの
何人もの自分が、原風景が、感覚が、
時の流れの中で
ボロボロになって、
バラバラになった状態で
落ち込むな、と言う方が
無理というものです。
★
そういった状態からもう一度
自分の人生を生きられるようになるために、
この場ではよく、
遠ざけていた自分を受け入れて
自分に統合しよう
とお伝えしています。
さて、この
遠ざけていた、見ないようにしていた
自分自身を受け入れるためには、
そんな自分と出会う機会が必要ですが、
そのために行うことがあります。
それが、
落ち込んだ状態でも動く、
ということ。
凄いですね。
そこまでガタガタになった状態で、
それでも動けというのが、
心のことを学んだ、
曲がりなりにもカウンセラーと名乗る者の
言葉なのですから。
でも、あえて、
少し休んで、動いて、
また少し休んで、動いて、
この繰り返しが必要だと申し上げます。
もちろん、体にバシビシとムチを打って
ひたすら根性で動け、
と言っているわけではありません。
最初は、座布団の上に胡坐をかいた状態から、
お尻の筋肉で、ずり、と横に動く程度でもいい。
それができたらもう少し動いてみる。
今度は手も使ってもう少し。
続いてどっこいしょと言って立ち上がってみる。
目の前にケーキが見えたから手を伸ばしてみる。
人と会話しようと電話をしてみる。
……
上記はあくまで例えです。
恒常的に落ち込んで住まう原因が
わからない場合もあるでしょう。
もしかしたら他人にとっては取るに足りないこが
原因の場合もあるでしょう。
でも、理由など、関係ありません。
繰り返します。
理由など、関係ありません。
心がやられて体が動かない。
その現実に対して、
少しずつでも動いてみよう、と
申し上げています。
「ちょっとだけ動いてみようか」
そう自分にささやいて、
弱っている自分の肩に手をかけて、
少しニヒルに微笑みかけて
動いてみましょう。
もう一人との出会いは
その中で起こるのですから。
その出会いの中に、
遠ざけていた自分、
見ないように蓋をしていた自分もいるのです。
動かないまま、動けない理由ばかりを並べて、
気がつくと、10年、20年、30年、40年と
経っていることは不思議ではありません。
時を待っていても、
動きやすくなることもありません。
落ち込んだら、落ち込んだなりに
動くことはできます。
きっと落ち込んでいない時とは異なり、
ウキウキはしないでしょう。
こんなことして何になるんだ、と思うでしょう。
だから、いつも、とは言いません。
落ち込んだ時は動かなくてももちろんいい。
どちらでもいいんです。
好きな方を選択すればいい。
ただ、動けないというのは実は
思い込みであることが多いことを知ってください。
動くことが大切なのは敷衍されている。
でも動けない理由を用意して動かない人は大勢いる。
医者も専門家も無理するなという。
無理なんじゃなくて
動きたくて動ける自分も実はいる、
その自分を知ることだと思います。
「そんな自分はいない!」
それも真実かもしれません。
しかし、今こうやってここにきているのは、
動こうとしているあなたがいるからでは
ないでしょうか。
休んで動いて、また休んで動いて
その繰り返しの中に、変化があらわれるんです。
私たちがどんな状態にあっても、
どんな理由をもって動いたり動かなかったりしても、
時は流れていきます。
何かが起こったから動く、ではなく、
動いて何か起こっている中に行く、
と言った方がいいでしょうか。
そうやって動いていき、
体感覚を書き換えていく中で
未来もまた変化していきます。
動くことに、正解はありません。
ただ、動かない理由を見つけて、
ずっと閉じこもっている限り、
そこに変化は生じません。
小さくても、拙くても、笑われても、
あなたのできる範囲で、
動くことを模索してみましょう。
そこには、
時間の風がながれて、気持ちよくて、
そこにとらわれないあなた自身が
生き生きとしているはずです。
ー今回の表紙画像ー
『宇都宮に向かう列車の車窓から』
台風きてますね。安全第一!
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