得体の知れない何かに
追い詰められていたり、
どうにもならないと激情に
飲み込まれていたり、
生きること自体に
投げやりになっている時、
そこにはある基準が存在します。
どんな基準かというと、
何かに追い詰められたと感じる基準、
飲み込まれる激情が湧き上がる基準、
何かをしていなければいけないという基準。
新しい未来を欲しながら、
それが今の延長にはないとわかっていて、
でも今の延長で結果を求めようとする。
ほんとうは、
その末の“症状”があらわれて、
「いやいや、そうじゃないよ」と
メッセージを伝えてきてくれているのに。
基準はとても大切で、
そこで必死に生きているのだから、
誰も馬鹿にはできないはず。
肝心かなめの自分が、
もう今の延長に自分の未来を
描けなくなっていて、
そこにいることや、
結果を出すことに、
価値を感じなくなってもいて、
無意識もこれ以上無理して
何かに応じようと
しなくなっているかもしれないのに。
何か、とは、
生き方のことで、
働き方や、仕事の内容や、家族の在り方や、
とにもかくにも、
そこで自らを削って生きることを
本心が拒否反応を起こしているかもしれないのに。
苦しくて、でもやりがいがある。
恐ろしくて、でも楽しい。
アップアップで、でも気持ちいい。
ならいいのだけど、
苦しくて、つまらない。
恐ろしくて、面白くない。
アップアップで、気持ち悪い。
読点の前半と後半がどちらも
望まない状態なのだから、
人生を見つめなおす時間かもしれませんね。
自分が何者であって、
どう生きていきたいいか、
どう生きていったらよいか、
何を求めているのか、
という基準。
その基準を外に求める自分を肯定して、
その上でもう一度、
自分の内面を見つめてみるといい。
自分が輝けて、
自分が満足できて、
自分が納得できるような基準。
いいですね。
そんな基準を求められるなら、
私も欲しいと思うときがあります。
でもその前に、
前提があります。
先日、湯船につかっていたら
物凄い音が聞こえてきました。
木枯らしの音でした。
結構凄かったです。
ぼわっという音とともに、
建物が揺れたような感じまでしました。
きっと圧が部屋の空気を揺らしたのでしょう。
あれっと思う間に、
小さなタイムスリップが起こりました。
子供の頃、
冬の木枯らしの吹き抜ける音。
じっと耳を澄ませた記憶はありませんか?
耳をすませたというより、
聴き入っていたという感じ。
何か特別な興味があったわけでもなけれは、
悩み事があったわけでもない。
ただ、黙って、
身動き一つせず、
聴き入っていた。
自分に戻る、
自分の本心、
素の自分。
それは、
ご大層な何者かのことではなく、
そういった体に宿る記憶のこと。
それを感じられる時間があるといい。
切にそう思います。
その感覚を見失ってしまうとき、
外側に求めた基準に従って、
根無し草のような『夢の彷徨』がおこります。
それもまた
自覚しているならいいけれど、
文句を言いながらだとすると…。
収入を上げる、
良い仕事に就く、
日常をやりたいことで埋める、
独立する、
そんな夢を実現しよう、
そんな未来を現実にしよう、
そうやって人を助けていこう、
心底そう願うなら、
とても素敵だと思います。
とても素敵だし、
大切なことではあるのですが、
夢を暴走させたり、
自分の本音から遠ざからないために、
何者でもない自分を感じ、慈しみましょう。
ー今回の表紙画像ー
『年始の川』
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