親から受け継いだ価値観を書き換える感覚のヒント

日々の棚卸

 

私たちが生きる上で基準とする価値観には、

 

常に同じであることと、

時間軸(=時代&自分の立ち位置)によって

変わる(変える)ことがあります。

 

前者は、普遍的なもので、

 

人は命ある限り生きようとするべき、とか、

人を殺してはいけない、とか、

自分を含む人を大切にする、とか

 

そういったこと。

 

後者は、

その年齢やおかれた立場によるもので、

 

高校生らしさ、とか、

社会人なら、とか、

自分の気質からすると、とかいった、

 

社会的な区切り・フェーズ、あるいは

自分の状態・状況によるものです。

 

私たちが悩み迷うのは後者に関することで、

前者のことなんてもわかってる、

と考えがちだけど、

 

実は、前者に含まれることではないか

というのがここで述べることです。

 

 

普段意識しないにもかかわらず、

自分の行動を決めている基準があって、

通常は無意識に記憶されています。

 

気がつくと勝手に?行っている行動の制限、

または、

気がつくとやってしまっていること、

 

これらは、

無意識が体現された結果です。

 

常に同じとする価値観は、

普段意識することなく、

この無意識に刻み込まれている。

 

ところで、

親から受け取った価値観は

どちらに入るのでしょうか。

 

親から受け取った価値観とは、

 

親から躾けられた(と称する)こと、

言い渡されたこと、

起こったことへの振る舞いや反応、

 

何より、

嗅ぎ取り、体に染み付き、血肉となった

彼らの生き様、世の中の見方・受け止め方、

 

感情の表現方法、処理の仕方、

人という存在、

お金との接し方、自分自身の扱い方、

 

といったことです。

 

それらの良し悪しはさておき、

曲がりなりにも何十年という歳月を

生きてきた大人と四六時中接する中で、

 

あなた自身が身に着けてきたこと、

あなたの体の隅々まで行き渡ったこと、

あなたが言動の基準にしたことには、

 

そんな中から吸収したことが、

少なくないと思います。

 

いかがでしょう。

 

例えば、

小学生の時に言い渡されて委縮した言葉、

日々見慣れた父母の諍いが身に沁みた教訓、

それらをもとにした自らの言動…。

 

自分の内面と向き合い、

それらを丁寧に棚卸してみると、

 

実は思った以上に現在の自分に色濃く

影響を与えていることに気づかざるを

得ないはずです。

 

棚卸は、一時期はやった、毒親とか

モンスター何とかのように

糾弾するのが目的ではありません。

 

仮に、

怒りが収まらなくて何も手につかず、

発散が必要なら、そうすればよいでしょう。

 

ただ、それは問題の本質では

最早ありません。

 

子供の頃の躾なのか、

自ら勝手に嗅ぎ取り吸収した価値なのかは

ともかくとして、

 

それらはおそらくは前者、

つまり普遍的な価値観として自らの中に

位置付けられているのではないでしょうか。

 

思考、考え方といった理屈は別として、

皮膚感覚に宿った価値観は

文字通り体に刻み込まれています。

 

普遍的な価値観と言うと、

何やら高尚で哲学的に

感じられるかもしれませんが、

 

個々人が記憶する普遍性は

前述のようにまさに個人に帰する

経験則による部分があります。

 

裏を返せば、十人十色。

 

それをどう呼ぶかはともかく、

不要有害な現実をもたらすなら、

 

あるいは、

自分を追い詰め、現実と未来を苦しめるなら、

 

それらは書き換えた方がいい。

 

 

ここで本題ですが、

この書き換え作業が大変です。

 

××をやったら、一瞬で変わります、

などという専門家もいるようですが、

 

私にはそうは思えません。

 

先に述べた通り、

自らの皮膚感覚に染み付いた価値観を

書き換えるというのは、

 

新しい価値観を染み付かせることと

同義であると理解すると、

 

一朝一夕で実現するものではありません。

 

『無意識』『習慣』というワードは

多くの方が目にしたことがあるでしょう。

 

これらのワードをどうつなげることで、

あなたの体に染み付き、

 

書き換えようとしても

なかなか書き換えられない価値観を

書き換えられるのでしょう。

 

簡単に書くと、

 

その価値観は理屈では変えようがない

知ることが最初です。

 

当然ですよね。

 

皮膚感覚に宿ったものは、感情と結びつき、

本能と見紛う反応を通して

外界に表現される。

 

その表現が周囲と連動して、

あなたに次の出来事をもたらす。

 

それがまたあなたの…

と連鎖していくわけで、

 

この連鎖の輪を変化させ、

別の世界・価値観に自身を導くためには、

 

あなたの中に根付いた反応の素を

理屈を超えて再編成させる必要が

あるわけです。

 

あえて、削除と言わず

再編成という言葉を使用したのは、

 

必要だからこそずっと共にあったものは

理由はどうあれ、あなたの大切な一部で、

 

それは無下に消去しようとしたり、

忌み嫌ったりするものではないからです。

 

少し話がそれました。

 

理屈を超えて、と書きましたが、

凄いことをするわけではありません。

 

繰り返しますが、『無意識』『習慣』

というキーワードを、

体に宿った感覚を変化させていくために

どうつなげるか、というものです。

 

最初に、きちんと意識することを

述べました。

 

次は、何を習慣化するかを知ることです。

 

これが意外に

どこにも書かれていなかったりして

なかなか見当たらない。

 

で、それは、どういうことかというと

反応が起こる際の情動に対して

どう受け止めるか、気遣うこと。

 

そして、習慣化という名の通り、

その内面の受け止め方を長く継続すること。

 

私たちは無意識に基づいて、

反応を繰り返す世界にいます。

 

これを意識的に行うには、

太字のアンダーラインで示した、

長く継続、が必須です。

 

これは、問題・悩みを抱える当人にしか

できないことです。

 

できることなら、

 

その時に学んだこと、

ささやかな変化(変化が感じられないことも含めて)、

問題と方向性の確認

 

などを、集団カウンセリングや自助Gなどで

語り続けられるといい。

 

この繰り返しと積み重ねが、

反応の素を上書きしていくのです。

 

さらに具体的な方法になると紙面が足りないので、

別の機会か、直にお会いする方にお話しします。

 

 

私の知人の50代の男性は、

80代の母親に背中を優しくたたかれて、

電気が走ったと言いました。

 

特にマザコン男ではないのですが

家のローンを抱え、日々の仕事に追われ、

ともすれば自分自身を見失いがちな状況で、

 

母親に触れられながら勇気づけられた、

という台詞を耳にしたこと自体を

一瞬疑ったほど意外な言葉でした。

 

「頑張れって背中軽くたたかれてさ、

なんかビビッて電気が走ったように

元気が出てきたんだよね」

 

それほどに

色濃く影響を及ぼす親という存在。

 

そこから、

大切なものは普遍性をもって受け継ぎ、

 

不要有害となったものは、

勇気をもって変えていく。

 

それが私たち、親という存在から

この世に産み落とされた者たちが、

自分の人生を生きるために

 

行い続けることなのかもしれません。

 

ー今回の表紙画像ー

『きれいな鳥』

流れの緩やかな川のほとりにいたら、鳥が水面にダイブして魚を採っていました。

きれいだったので撮ったのですが、ボケてるな。カワセミか何か?