町と空・海・山・川・森・花・水・人

日々の棚卸

パソコンとネットワークが

日常生活に普通にあるようになって

四半世紀くらいでしょうか。

iPhoneやスマホは

どのくらいになりますかね。

10年くらい経ったかな?

 

年齢・性別・職業・性癖などにもよりますが、

パソコンやスマートフォンを使わない、

ネットワークを利用しない日は

おそらくないのではないでしょうか。

このブログもそうですが、

電波が飛び交い、

どこにいても

必要な情報が無線で入手可能な世界も、

四半世紀前には

研究所の1テーマでしかなかったものが

現実になったということです。

当時、私はそんなテーマの末席に加わる

うだつの上がらないサラリーマンでしたが、

当時の秀才たちはもしかすると、

こんな世界を思い描いていたのかも。

情報の授受という意味で、

本当に便利な世の中になったと思います。

 

コロナ禍で大手企業を中心に

在宅型のリモートワークの導入が

加速されているようです。

個人のビジネスでも、

セミナーやミーティングなどを

Skype、Zoomなどの

ネットワークツールを用いて

遠隔会議の形で行われています。

私のところでもまた、

理系であるにもかかわらず、

パソコン音痴の頭をフル回転させて、

SkypeやZoomを用いた

面談の設定を用意しております。

 

電子ネットワークの世界、凄いですね。

好きな人は本当に

この世界にのめりこむように入り浸って、

時が過ぎるのも忘れている。

自分にはありえない生活だなあ

と思いながら、見ています。

皆さんはどのような生活を

送っておられますか。

 

文系と理系、

製造業と金融と個人事業と主婦(夫)と公務員、

技術と営業と経営と経理、

職業も職種もその形態も含めて、

世の中にはほんとうに

いろいろな仕事があるものです。

その中で、

仕事がうまくいかない、

人の関係がつらい、

行き詰ってどうしようもない、と

いう方もまた少なくありません。

特に、コロナ禍は人類史上初めて

会いたい健康な人同士が

互いの都合がつくときにさえ

会うことができない状況をもたらしました。

これは、人類の解明した知識によって

人の命を守ろうとした結果です。

同じ英知がもたらした利便性が、

私たちをバーチャルな世界に留め置いたまま

人とつながることを

可能にしてもいるわけですが、

本来の五感への訴求ではないことが、

今とこれからに向けた現実感を

乏しくさせているのも事実です。

 

こんな状況では特にですが、

行き詰ってしまったとき処方箋の一つとして、

自然にふれることがよく言われます。

自然にふれる。

具体的なようでいて、

実はとても抽象的な表現ですよね。

ふれる自然としてイメージされるのは、

人によってそれこそ、千差万別ですから。

 

私は自分が慣れ親しんだ自然が好きです。

そして自分が行き詰った時の

処方箋の一つでもあります。

ナイアガラの滝やオーロラ、

アフリカのサバンナや

エメラルドグリーンの南の海なんかを見れば

きっと大感激すると思いますが、

それよりも自分が子供のころから接してきた

すぐそこにある自然が好きです。

 

『バカの壁』の著者である養老先生は、

ご自身の幸福論の中で

「まち、ときどき森」として

参勤交代のように

各人が定期的にまちと森(自然)の双方の環境で

暮らすことを勧めています。

私たちの悩みは人間関係に帰結する、

そして人工的に作り上げた都市と

そこで展開される人の関係と異なる

自然と接することが、

悩みへの対処方法の一つだと述べています。

ですから、都市の住人は田舎にも家(別荘)を持て、

そして定期的にそこで暮らせ、と。

そうすると、何がおかしいか見えてくる、と。

そうおっしゃっています。

 

なるほど。

都会と田舎に家を持て。

できる人はいいと思います。

実際にそうされている人もいます。

でも、できない人、

やりたくない人も

いると思います。

 

一つ言えることは、

自然とふれることの意義、威力です。

先に自然にふれるという表現が

抽象的だと言いました。

 

では、皆さんは自然にふれていますか。

にっちもさっちもいかないとき、

自然にふれに出かけますか。

ふれる方は、どんな自然とどのようにふれますか。

 

自然は私たちの体も含めて、

人工物とは関係なく独自に生きています。

だからこそ、

人工的なシステムの中で

ともすれば苦しむ自分の

心、体、魂を休ませたり、

喜ばせたりするために、

自然にふれることは有益というか大切です。

 

私たちは、

母親の母体という自然から生まれて、

人工的なシステムの中で自然を知り、

そこから徐々に離れていく

暮らしをしがちです。

少なくとも町の生活者は

そうではないでしょうか。

だとすれば、

私たちと自然をつなぐポイントは、

私たちが人生のごく初期にふれ合った

自然との関係にあると思います。

 

私なら、先に挙げたように

街の中を流れる川や、

そこに生きる魚たち、

あるいは、夏の街路樹でないているセミや

道端の小さな草花にとまる蝶々や

街角の花壇や民家の庭先を彩る

四季折々の花の色や

香しい匂いや

遠くに見える山並みや

頭上に広がる空や流れる雲や

電線にとまる雀たちや

塀の隙間に入っていく猫や

真冬の午後に町を揺らす木枯らしとその音や

町中にカラフルな傘の群れを演出する雨や

……

ほんの少し余裕をもって、

ほんの少し意識を向ければ、

私たちが求める意味での自然は

先に書いた以外にも、

実はすぐ身の回りにいくらでもあって、

二十四時間、三百六十五日、

目で見たり、

耳で聞いたり、

肌で感じたり、

何かしら感じられるものがあると思います。

一応付け加えておくと、

季節の味を楽しんだり、

土地のお酒を飲んだり、

とここまで来ると微妙ですが、

そんなことだってあると思います。

 

私が生まれ育った町は、

コンクリートに囲まれた

ガチガチの都会でしたが、

日本という温暖な気候の中では、

人工的に植えられたものも含めて

木々や草花が育ちやすい。

そんなところにやってくる

昆虫(苦手な人もおられると思いますが)や、

街はずれを流れる川で姿を見られる魚たちが

私の慣れ親しんだ自然です。

 

東京、関東は大都市圏ですが、

やはりそこかしこに自然が横たわっています。

川も海も山も森もちょっと足を延ばせば

すぐのところにあります。

自然とふれることというのは、何も

しゃっちょこばって行うものではありません。

昇る朝日や沈む夕日、

夜空に浮かぶ月を映して、

どんな雄大な観光地にも負けないくらい

素敵な景色を見せてくれます。

そこに生きる小さな生物たちを追いかけ、

ふれ、愛でるとき、

自分はこんな生き物よりちっぽけだな、

と感じます。

かつて大嫌いだった父や母が

彼らの貧しかった暮らしの中で、

遊び慣れ親しんだ自然と

同じ環境に身を置き続けると、

様々な問題に追い込まれた自分を

受け入れる必要性を感じ、

その先に、

大嫌い、

ではなく、

大好きの裏返しで

両親を見ていたことにたどり着きました。

 

私たちが生まれて

最初にふれた自然は、母親(母体)です。

与えられたのは、まず自然としての生命です。

理屈抜きに自然と

身を任せるという信用(本能)を

原初の記憶に埋め込まれています。

だから、

人工的なシステムの中で生きるうち、

それと相いれない

自然としての自分があがいているのなら、

自然にふれるということを、

慣れ親しんだ状況をきっかけに

求めていくことはできないでしょうか。

それを繰り返すうちに、

日々の人工的なシステムの中に

自分を新しく置きなおすことができれば

それでいいし、

もっとディープに

自然の世界を追い求めていくのもいい、

あるいはこれをきっかけに

人工的なシステムとのかかわり方を

変える行動をとることもあっていいと思います。

 

私たちのすぐ目の前には、

空も、海も、山も、川面、森も、水もあります。

そしてその中で、自然に一部である

私たち人間(の体)があります。

 

ー今回の表紙画像ー

『夕景 三浦半島相模湾』