私たちは孤独を感じる時、
あるいは孤独という言葉を耳にするとき、
自分が世界から見放されている感覚だと
受け止めがちです。
自分が他の人々から遠ざけられている、
自分が他の人々と相まみえず、
仲間となり得ない、
自分が他の人々から理解してもらえない。
つまり、
自分と他者の距離ができる原因の主体が
他者になっています。
そういうことは多分にあるでしょう。
でも、実際には、気づかないまま、
自分が人を遠ざけている結果であることも
少なくありません。
救いようのなさ=ヘルプレスの感覚が
心細さややりきれなさとなっていて、
一方で、そういった感情を認めることに
躊躇いがあるとき、
些細な出来事、身近な誰か、義務、
そういったことに理由をつけて、
だから私は…
と孤独につながる振る舞いを
知らないうちに演じてしまったり、
人を忌むオーラを発していたり、
することが、ままあります。
★
かといって、そうなってしまうことは
一朝一夕では変えられないかもしれません。
そもそも、
そんな自分を受け入れていないから
そうなってしまうのであって、
その問題とたたかっているうちは、
ドラスティックな変化はなかなか
おとずれないものです。
そうやって誰もが大なり小なり、
自分を受け入れることを試行錯誤し
自分を受け入れる自分に変化を試みます。
かといって、変化するまでの間、
手をこまねいているのはもったいない。
何事も、少しずつです。
自分の感覚の受け止め方を
ほんの少しだけ変えてみて、
抑鬱と救いようのなさが
誰とも繋がれないという孤独感になって、
心と体が動くことも躊躇われて、
それでも、
その間にできること
仕事でも
家事でも
誰かに声をかけてあいさつすることでも、
ゆっくり眠ることでも、
栄養のバランスよく食べることでも
笑うことでも、
ちょっとした運動でも、
落ち込んだなりに楽しもうとすることでも、
ちょっとした映画や音楽でも、
腹が立つ相手へのちょっとした気遣いでも、
ちょっと奮発してほしかったものを買うことでも、
反対にちょっと節約してみることでも、
ともかく、
そんなちょっとしたことで、
でもなかなかそのままでは、
その気にならないことを
ほんの少しだけ実行してみてください。
無理だ!
無茶だ!
この辛さをわかってない!
青二才!
人の痛みがわかってない!
くだらない!
わかったようなこと言うな!
口では何とでも言えるぞ!
きれいごとぬかすな!
………
その昔、
諭されたり、
心の処方箋として聞かされたりしたとき、
私が激烈に感じていたことを
言葉にしてみました。
先の言葉にあなたがどう思ったかは
わかりません。
でも、もう一度言います。
こうやってきっかけがあって、
自分の心の(おそらくガタガタの)状態とは別に、
自分の感情を大切に受け止めながら、
いつもより、
ほんの少しだけ、
隣の人に柔らかく接して、
ほんの少しだけ
目の前の仕事を片付けて、
ほんの少しだけ
こんな状況・状態でもよくやっている、
と自分に繰り返し声をかけ、
ほんの少しだけ
相手に譲って、
ほんの少しだけ、
体に良い食事を作って食べて、
ほんの少しだけ、
一緒にいる人に感謝を伝えて、
ほんの少しだけ
自然に触れて、
ほんの少しだけ、
自分の中の感情を安全な場で外に出して、
ほんの少しだけ、
運動をして、それから体を休めて、
ほんの少しだけ、
自分から変化を促して、
そうやって、
自分がにこやかに、
自分が積極的に、
自分ともう一人の誰かを慮って、
生きている時、
そこに絶対の孤独は、
というより
味わいたくない孤独感は、
新たに生まれえません。
だから今すぐそうするように急げ、
などとは
受け取られないような書き方をしました。
これももう一度書きますが、
そうは言っても
そんな心境になれないこともあります。
思うに、孤独感が日常を侵食して、
救いようのなさを自らの内に宿す時、
そこには、
自分の居場所が感じられないと思います。
働く場所に自分の居場所はあるか、
暮らす場所に自分の居場所はあるか、
心の中に自分そのものであることの居場所はあるか、
心の中の居場所は体感覚とつながっているか、
描く未来に向かう道のりはあるか、
自分が自分であることが当たり前の場所はあるか、
居場所を感じるとは、そういうことです。
そう考えると、
孤独感に苛まれた状態とは
自分の居場所を感じられる場所が
どこにもないことの表れかもしれません。
そして、何かをすることよりもずっと
居場所を得ることは
自分が自分であることを担保してくれもします。
理想的な生い立ちや家族というのは
実在はしないものですが、
仮にそんな状況で生まれ育った人がいるとして、
そういう人の居場所とは、
次のように出来上がるのかもしれません。
最初に、
自分の存在そのものを当然とする
心・感情を認める居場所が、
自身の中にしっかりと根付きます。
それはそのまま家族という最小単位の
人の集団の中で
ほどほどのストレスで揉まれながら強くなり、
物理的な居場所となってできあがります。
次に、
その居場所を足掛かりとして、
自分が求める世界を探りながら、
成長していく過程で、
幾つかの場所に居場所を作ります。
その時には、そこに関連する
周囲の人々の中にも居場所を得ます。
求めるものが変わり、
暮らす場所が変わり、
出かける場所が変わり、
出会う人や一緒にいる人が変わり、
魂が成長し、
そういった幾つもの変化を経て、
職場や組織、友人、新しい家庭、
そして何より自分の内面・胸の奥に
居場所を得ます。
そこには常に、
休みたいときには休みながら、
能動的に求める何かを自分の中に見出し、
その自分を大切に生きながら
居場所と関連付けていく姿勢があります。
別の言葉で言うと、
自分を売らない生き方とでも
言えばいいでしょうか。
居場所は時に、
海や川や山や草原や砂漠や森や、
そういった自然にもあるかもしれません。
同時に順序はとても大切で、
お金と仕事が最初に来ると、
往々にしてトラブルが発生します。
孤独としっかり向き合い、
そこに自分の居場所が欠如していると感じて、
もう一度居場所を生み出そうと動き出す、
実は孤独感は、
そのために現れたのかもしれません。
だとすると、
やっぱり人に無駄なことは何も起こらない…。
きっとあなたの無意識は
ここで書いてきたことを
言葉になっていないだけで
既に知っているのかもしれませんね。
なぜなら、孤独感もまた、
大切なあなたの一部ですから。
ー今回の表紙画像ー
『夕暮れのお月様』
買い物帰りに西の空を見たら月が浮かんでいた。
街中で見上げた空に月があると、なぜかパチリとしたくなる。
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