それをやってどうなるの、という問いに込められた想いを希望に変える

日々の棚卸

 

「それをやってどうなるの?」

 

この言葉がいつも口をついて

出てきた時期がありました。

 

それが回復のヒントになっていたと

今になって思います。

 

そういうわけで、

今回はこの言葉について考えてみました。

 

 

この言葉が出てくるのは、

どんな時でしょうか。

 

おそらく、

 

シンプルにその先を知りたいという

質問の時もあれば、

 

それをすることに呆れていたり、

明らかにおかしいと思っていたり、

という場合に、

いい加減にしてほしいという意思を

伝えたい時もあるでしょう。

 

別の見方で言えは、

 

その人の置かれた状況に拠る時もあれば、

その人の生い立ちに拠る時も

あるかもしれません。

 

その他、

 

仕事の意味を問う時もあれば、

料理の手順を問う時もあるでしょうし、

 

予測される結果に辟易していて

勘弁してよ、と言いたい時もあります。

 

ですが、

 

先へ進むことができないと感じる人、

日常がどうにも回ってない人、

人生に行き詰っている人、

 

そういった人々がこの言葉

「それをやってどうなるの?」を発する時、

この言葉自体がメタファとなっていることが

少なくありません。

 

メタファとは、暗喩のことですね。

 

その人の発する言葉や行動が

意味するところとは別の、

 

その人にとってさらに

巨視的、あるいは全体的なことを

示唆していたりするいるということです。

 

ひきこもりの子供が、

実は不仲で冷戦状態の父母が心配で

見張り役になっているケースなどは

その一例です。

 

ともかくも、

最初に述べたような意味での

問いではないということは確かです。

 

「それをやってどうなるの?」

この言葉が恒常的に口をついて出たり、

頭の中にリフレインされるようなら、

メタファという解釈が妥当ではないかと思います。

 

仕事や町内会などの義務では

なかなか発しづらい言葉です。

 

友人や趣味仲間の間でも

容易に口にできる言葉ではありません。

 

「それをやってどうなるの?」

 

その問いは、

目の前にあるその事象そのものに対する

問いではありません。

 

目の前の相手に対する問いでもありません。

 

ではそれは、

何に対して発せられているのか。

何のメタファなのか。

 

 

「それをやってどうなるの?」

 

そこには、

「何をやっても」

「誰であっても」

「どんな状況であっても」

 

決してうまくなんていかない…、

 

そんな絶望的な諦念の気持ちが

底流に流れていることはないでしょうか。

 

「どうせ…」

ということです。

 

実際のところ、

そう言う客観的な根拠はありません。

 

ただ、気づく前に発せられているのです。

 

なぜなら、

自分の心と身体がそう反応するから。

 

その理由は、

自分の中に今も息づいている、

過去からの流れの暗い時間を

現在に当てはめてしまうから。

 

いかがでしょう。

 

「それをやってどうなるの?」

 

この言葉は、

ずっと前の”何か”、

それも目の前でこれから行われる

何かの事象よりも、

 

もっと大きな”何か”の出来事を

『基準』にしていたりします。

 

別の言い方をすると、

“自分という存在そのもの“を

自ら認められていないことの裏返しの

表現だったりすることもあります。

 

家族の形が壊れてしまった、

肉親が自死した、

 

どちらも若い頃の私に起こったことで、

それが生きることに対し、

自分自身の存在に対し、

 

得体の知れない混乱と暗闇となって

覆い尽くしてきたことは、

折に触れて述べてきたことですが、

 

これらはほんの一例であって、

 

私が他の方の相談を受けるようになって

お話を伺う中で、

 

同じように、

 

家族の闇に取り込まれてしまっている方、

親兄弟から暴力を受けてきた方、

親が親として機能せずに放置された方、

 

働いて稼いだお金を親にたかられた方、

経済的に困窮した生活を続けて

気持ちが折れてしまった方、

 

ひたすらできないことにフォーカスされて

否定ばかりされてきた方、

 

親や兄弟を幸せにするよう躾けられた

にも関わらずそれを実現できずに

自分を無価値と思ってしまっていた方、

 

などなどなど。

 

これらは本来あってほしくないことであり、

 

同時に、

自分自身を無価値と感じさせてしまうに

十分な出来事であり経験でもありますが、

 

そう感じるようになってしまった自分は、

そのまま社会の中でも

繰り返しそうなるように

振舞ってしまってもいます。

 

そして…そう、

実際に、「そう」 なります。

 

そんな状態で、

 

何かを実施する機会におかれた時、

その先に求める効果に対して、

 

メタファである

自分のミッションが遂行できるか、

 

すなわち、

 

家族の闇から逃れ、

親兄弟からの暴力を回避し、

困窮した生活から脱出して、

折れた心を復活させ、

自分で自分を認められ、

自分を最優先して幸せにするように動く、

 

そういったことができるだろうか、

そういう問いかけが

“目の前の事象”に対して、

自らの中で行われるわけです。

 

理不尽ですよね。

筋が通らないですよね。

ホントは何も関係ないことですから。

 

でも、

 

心身の根源的な安全を感じられない人が

社会的な承認を得ることに

フォーカスできないように、

 

本来最も求めたいことが、

 

目の前の何かを試行することを

求められるたびに、

行われてしまっている、

 

ということなのです。

 

因果性の乏しい目の前の機会と、

本来自分が求めている何かをすり替えて、

『それをやってどうなるの?』と

問うてしまっているのです。

 

おかしな理屈だ、と

批判する人もいるでしょうが、

 

このことの是非自体は、

私にとってはどうでもいいことです。

 

かく言う私自身がそんな時期があって、

それを無下に否定批判することが

無意味だと感じているからです。

 

ただ、一つ言えることがあります。

 

ここには大きな希望が隠れているんです。

 

世間の価値や、

ネットやお金儲けや地位などとは異なる、

 

やりたいこと、

自分のミッションが、

見え隠れしているということです。

 

安全、安心、平安、希望、欲望。

 

そういった、もうずいぶん昔に

置き去りにしてきたはずの言葉が、

リアルに響くようにならないと、

 

私たちは本来の生き生きとした自己を

生きていくことができません。

 

それが今、見えたのです。

 

あれれ?

 

やりたいことが明確になりましたね。

 

とてもめでたい!!!

 

どうやって実現していこうか?

と問いが変わりましたね。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『串カツを作ってみた』