ほしいもの

日々の棚卸

バブルが崩壊した20世紀末から

失われた20年という言葉が

一人歩きしてずいぶん経ちました。

それが、いつの間にか30年。

平成の御代を通じて、

他の先進国をしり目に

伸び悩む日本の企業に対して

経済評論家は、

企業の経営努力がどうのとか、

新陳代謝がどうのとか、

言い放ち、

諸外国の一部からは

英国病ならぬ日本病とかまで

ささやかれていて、

それでも

会社にお勤めの方々は

精一杯対応していたと思います。

世界に缶たる製造メーカーでは

世の中の新しいスタンダードになるような

斬新でいて、

万人に受けるような

素敵な製品やビジネスモデルが求められ、

私が社会に出た当初から、

技術陣には

それらを具現化する

魅力ある商品とか

魅力ある商品につながる研究とか

そういったものを生み出すように

“指令”というか、

テーマが

偉い人たちから降りてきていました。

バブルと原家族の崩壊が重なる中で

社会人としてのスタートを切った私は、

「自分が欲しくなるようなものを作れ」

「自分が欲しくもないものを

お客様が欲すると思うか」

と聞かされ続けるまま、

自社の製品や研究テーマを眺めては、

自分が欲しいもの、

という言葉と当時の仕事とを

うまく結びつけることができない、

うだつの上がらない社員でした。

彼らの言っていることは正しくて、

確かに、自分が欲しいとさえ思わないような

ものを作ろうとしたところで、

魅力のある仕事、

魅力のある成果

魅力のあるサービスなど

生み出せるはずもないことだけは

納得していました。

 

自分が欲しいもの。

死ぬまで生活の心配がいらない大金。

大きな家。

いくつもの大きな別荘。

自家用飛行機。

素敵な恋人

素敵な妻(夫)

かわいい息子や娘

通勤の必要がない働き方。

短い労働時間で収入の多い仕事。

自分が大好きでいつも充実した仕事。

大勢の仲間。

たくさんの自由時間。

美しい風景に囲まれた暮らし。

利便性の良い暮らし。

健康な体。

おいしい食事とお酒。

それから…。

 

これらはどれも、

人生に行き詰った人たちが、

変化を始めるために目標を明確化するという

作業に取りかかった時、

最初に挙げる希望なるもの。

ボクは、私は、違う!

という方、すいません。

私は最初そうでした…。

そのほとんどは大切かもしれないけれど、

外面的で、

何かの目標を達成した結果としての

ケースに過ぎないことを

自分の望みにすり替えてしまったことに

気づかないがゆえに出てくるもの。

決して、

恥ずかしいことでも

悪いことでもないけれど、

そこに本質的な何かが重なってないと、

それらの望みを叶えるために

動き出そうにも動くことができない。

自らを突き動かすものが発動しないから。

 

突然ですが、

生まれ育った土地を訪ねてみることは

自分の想いを知る一環として、

時々推奨されたりします。

私もそんな言葉におされて

中学の多感な一時期を過ごした、

日本海側の雪国へ

何度か足を運んだことがありました。

自分をエンパワー(勇気づけること)し、

見失った自己を受け入れる作業を

専門家の力を借りて行うことと並行して、

よほどの理由がなければ訪れることのない

遠い昔に慣れ親しんだ場所に足を運んで

その時間に身を置きました。

最初は、飛行機を使い、

次は、車で東名から北陸道のルートを取り、

さらにその次は、かつて家族とそうしたように、

電車で移動しました。

アルバムの昔の写真を見る場合もそうですが、

過去に触れたからといって、

自分が欲している

“想い”を感じ、

あるいは

“想い”が蘇るわけではありません。

正確に言えば、

“想い”とは、かつての自分が

受け入れていた

当然に感じていた

自らとともにあった

心の、感情の一部です。

心象風景です。

それを切り離すことを続けて、

行き詰まり、生きづらさを感じて

今に至るのだから、

そこには、

“想い”を感じ、よみがえらせる程度には

自分を受け入れられている必要があります。

 

3度目、

先に述べたように、

専門家の力を借りながら、

自己の受け入れを進めていた頃ですが、

ほんの数年を家族で過ごした

日本海側の町へ出向いて、

昔住んでいたアパートを

久々に目にしました。

正確には言うと、田舎町なので、

とても歩いて回ることができず、

私鉄もない地域なので、

電車で行ったこともあって、

レンタカーを借りて町を回ったのですが、

家族が暮らした部屋、

通った中学校

釣りに行った海や川

お祭りで叩く太鼓の稽古に通った公民館

そういった場所を訪ね歩き、

ホテルに戻った頃には、

しばらく呆然とし、

その後は涙が止まらなくなりました。

それは帰りの電車の中でもそうで、

ずっと窓の方を見てはいましたが、

周囲で私に気づいた人たちは

いい歳のおじさんが何なんだろう、

くらいにはおもったかもしれません。

嬉しかったんですね、とても。

そしてそう感じていた自分を

ずっと遠ざけていたことが哀しかったし、

邂逅できた喜びと感動が

そんな表現になったのだと思います。

 

自分が欲しいもの。

それは、何よりも

あらゆる自分を受け入れて

ともに歩むことができる生き方であり

自分自身であることで十分という確信であり

その中でつながる人々であり、

その延長上にある家族であり、

これからも続けたいという日々であり、

そこからまた溢れ出てくる

自分や人や世界への“想い”であり、

同じように“想い”を描いている人々であり、

その“想い”を実践し続ける時間であり

時には衝突はしても、

そんなことも含めて誰もが

そのままそこにいることが当たり前の

そんな日常。

もしかしたらその先に、

自分が欲しいものとして少し前に列挙した

家やら飛行機やらが

あるのかもしれないけれど、

それをどうするかは自分の選択次第。

 

人によっては、

もしかするとあまりにも当然で

言葉にする必要さえないものかもしれない。

ただ、そのまま見失ってしまわないように、

自分が欲しいものとして、

言葉にしてみました。

 

それは自己を受け入れ続ける中で変化した

親に対する見方にも由来していたことは

明らかです。

 

先日も書きましたが、

親は、親の抱えた混乱した世界観の中で、

私と妹を精一杯育ててきました。

横にいてくれました。

いつもべったりじゃないけれど、

彼らのできる範囲で、

実は、人生をサポートしてくれていました。

私たちはうまくいかないとき、

どうしても原因を外に探ります。

同時に、

動かない心の理由を他者に求めます。

幼児、子供、少年少女の時代に

取り込んでしまったものはあるでしょう。

それは仕方ありません。

そして、

それを変えたくないと思う理由もわかります。

なぜなら、それを変えることは

慣れ親しんだ、

懐かしい部分も含まれた日々を

再現できなくなるという感覚があるから。

本当は、

心の奥底では知っているのだと思います。

憎んだり、悲しんだりできるほどに

わかっているのだと思います。

彼らと一緒に過ごした日々に、

たとえ衝突があって、

哀しい残酷劇があって、

どこかにいなくなってしまうような

結果になってしまったとしても、

決して恨みや怒りや絶望に

絡めとられているばかりではなく、

そこにはやはり、

当たり前に生きている自分がいたのだ、

ということを。

自分の最良の部分を

自分の中に、想いや能力もまた

しっかりと根付いてくれているということを。

 

核家族、

昔からの大所帯の家族、

いろんな形態があります。

それぞれがそれぞれのルーツに基づいた

過去を引きずり、

望まない時間を演出し、

そこに居る誰もを不快にさせることは

時にあるでしょう。

それらまでも無条件に素敵でした、

などとする必要はかけらもありません。

しっかり怒ればいいし、

嫌なことは嫌だとすればいい。

嫌だったこと、

悔しかったこと、

悲しかったこと、

それらはそれらとしてきちんと認識すればいい。

きちんと認識し、

きちんとその感情に自分の中で寄り添い、

それもまた自分の一部に統合すればいい。

そのとき、自分がなぜ今生きているのか、

なぜこうやって

悔しがったり、

悲しんだり、

憎んだりできるのか、

その意味が分かるはずです。

それもまた、

あなたという一人の人間になる中で

与えられた機会だということがわかるはずです。

マゾになれと言っているわけではありません。

自分のために、

自分の中に湧き上がった“想い”を

公平に扱ってみてほしいのです。

 

そうすると、

意識さえしていれば、

自分が本当は何を欲しているか、

そのために何をしたらいいのか、

が見えてきます。

そこには、

誰かの模倣などではない、

自分が力を発揮しなければ

実現しようのない世界が

待っていることに気づくはずです。

 

最後にもう一度、

少しだけ私の話をします。

人が家族を求める理由でもあるのだそうです。

 

日本海側の町からの帰りがけ、

列車の中で

当時よく聴いたポップスをi-Podで聴きながら

その時唐突に言葉になったことです。

なんと言うことはない、

父と母と妹がいて、

親類も友人もいない町で

時には衝突しながら

寄り添うように暮らして、

泣いて、笑って、怒って、喜んで、

そうやって生き抜いてきた

あの小さいけれども、

夏は風が通り、

冬はコタツとストーブの灯油の匂いがする、

みんながいたあの部屋の雰囲気が、

ほしかったんだ。

そう切に感じました。

続いて、

なんだ、十分幸せだったんだ、と。

そして、その“想い”とともに

専門家を目指そうと思う気持ちも

芽生え始めて、今こんなことを書いて

発信しています。

そう、そうやって素直に感情をたどってくれば

実は今だって幸せなんですよね。

 

ー今回の表紙画像ー

『青い花 ~朝の散歩より』何だろう、これ。きれいだったので撮ってみた。