「消えてしまいたい」
「死んでしまいたい」
ぼそりとつぶやかれる言葉。
自分が追い込まれている時、
問う相手を間違えると、
それに返ってくるのは、
「何勝手なこと言ってるんだ」
「ああ、それは甘えですね」
そんなこと言う人なんていない、
そう言えればいいのですが、
今も時折、耳にする言葉です。
どちらが正しいなどと、
是非の話をするつもりはありません。
ただ、自分が追い込まれている時に、
耳にしていい言葉ではないのは確か。
放っておきましょう。
ともかくも、
「消えてしまいたい」
そうつぶやくとき、
おそらく誰もが無意識の底で
朧ながらも感じているのは、
自分は、生きたいんだ、ということ。
だからと言って、
死にたいという人に向かって、
それを理解しているつもりの、
もう一人が、
ホントは生きたいんだよね、
と言っても、反発を食うばかり。
いえ。
もう一人というのは別に、
カウンセラーさんや相談相手の方に向けて
言ってるわけではないんです。
あくまで、
当の本人に向けてのこと。
その昔、
消えてしまいたい、
そう感じたことがあった時に
自分で自分に、
「ほんとは生きたいんだよな」
とやってみたことがあるのですが、
何度やってみても、
その言葉というか、
その言葉の根っこに
妙な反発を覚えてしまうんです。
多分それは、
当たり前すぎる言葉だから。
矛盾する言葉を吐きながら
当たり前もないものかもしれませんが。
でも、
「うわぁー、ボクほんとは死にたいんだぁー」
「あたし、ほんとは消えちゃいたいんだぁー」
とニッコリ笑ってやる気満々なら、
とっくに実行しているはず。
というか、そんな人いないでしょうけど。
いたら怖いし。
ホントに知りたいのは、
そこ、つまり
生きたい、
生きていていい、
生きていくんだ
そういう心境に変化するプロセスですよね。
いえ、その前にたった一言、
「消える必要なんてないよ」
というメッセージ。
当の本人が消えてしまいたくなるほど苦しい、
そう感じている時、
ほんとならもう一人の自分が
弱り切った自分をしっかりと抱きしめながら、
「死ななきゃいけないようなことなんて
何もしてないよ」
「消えてしまいたくなるような状況が
この世を覆っているわけじゃないよ」
「君が消えてしまったら哀しいよ」
そう心の奥底まで届けられるならいいのだけど、
消えてしまいたいという人の場合、
自己の受容が十分ではない場合が多いこともあってか、
耳に入る言葉が上滑りして、
なかなかそう感じるのは難しいかもしれません。
でも、
消えてしまうのって、実は大変なんですよね。
消える怖さや、
例えわずかであっても
身近な人々とのつながり感や、
自分が本当にこの世からいなくなる、
そういった感覚が麻痺するまで
時間が必要で、
その間に感じる徒労感や苦痛の方が
もっと長く辛い。
それに、
やっぱり、
哀しい。
消えてしまいたい、
死んでしまいたい、
そうあなた自身を追い詰めてしまっていることが
私はとても哀しいです。
きっと、
辛いことがあったのは確かだろうし、
理不尽な思いをしたのかもしれないし、
消えたいと思わなくて済むように
自らの変化を試みもしたのだと思います。
だから、
その上で、どうしてもそう感じてしまうのなら、
そこから逃げる方法を考えてみましょう。
消えてしまいたい、と
自らの命まで削ろうとするほどに辛いなら、
そこがどれほど重要な場所であれ、
その取り巻きがどれほど偉大であれ、
その環境がどれほど高いステータスであれ、
そこにいる意味はありません。
そんな境遇を失いたくない。
でも自分は苦しい。
その仕事を続けることが、
そのメンバーで働き続けることが、
その人と夫婦を続けることが、
その家族に留まることが、
辛くてどうしようもなくて
消えてしまいたい…。
もしそうならば、境遇を手放しましょう。
そこまでしてしがみ付かなければならないものは
何もないですよ。
消えたい、という感覚と、
その境遇の中で生きる価値基準は
セットになっていることが多いものです。
そこを分離することを試みて、
自分の心と存在を不安定極まりなくする
仮初の安定の場から出ることを考えてみましょう。
ー今回の表紙画像ー
『所用で熱海に行ってきた』
真冬でもヤシの木が生えてるんだ。。。
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