ずっと若い頃、
とても荒れていた時期がありました。
荒れていたと言っても、
社会的な逸脱行為に走ったり、
世の中に背を向けたわけではないけれど、
大好きなはずの歌を聴いても、
感動するはずの映画を見ても、
恋人や友人と話をしていても、
目にするものが、
耳にする音が、
皮膚を刺激する感覚が、
要するに、
他者の言葉や行動や何もかもが、
どこかで自分を批判しているように感じて
仕方がありませんでした。
いつもお話ししている
原家族がおかしくなっていた頃のことです。
それまで当たり前にあると思っていた繋がりを
一方的に断ち切られ、
何も持たされないまま、
果てしない世界に突然ポンと
放り出されてしまった感じがして
途方に暮れていました。
書いていて、おかしなことを言っているな
そう思います。
ですが、正直な感覚だったんですよね、当時は。
何も持たされないまま…。
正確には、手足や背中に、
父母が招いた夫婦間の葛藤と、
人生を他の誰かに背負わせようとする圧力が
重りのように張り付いていて、
それこそが途方に暮れた理由だったのかも
しれません。
あれから随分時間がたち、
今なら彼らが訴えたかったことが
よくわかります。
彼ら自身がどうしようもなくなっていて
心が助けを求めていて、
でも何をどうした良いか皆目見当がつかず、
一方で何とか親を演じ続けようともがいていた。
魂が感情の嵐に溺れかかっていて、
彼ら自身の存在意義自体が崩れかけていて、
それを必死になって押しとどめていて、
ますます自分たちを追い詰めているという
負のサイクル・パラドックスに
絡めとられていた。
そんな、自らの生き方が招いていた
混乱と行き詰まり感、生きづらさ。
どうしようもないほど苦しかったろうし、
そんな状態で私と言う息子を曲がりなりにも
好きでいてくれたのだな、と、
今なら客観的に眺めることができるし、
そんな両親には今も感謝の情が湧き起ります。
ですが、心理も精神医療もセルフヘルプも
知らなかった当時の私は、
彼らに負けないほど、
どうしようもなく追い詰められていました。
相談しようにもあてはなく、
内側に渦巻く憤りの感情が
夜と昼とを問わず自身を突き上げ、
それをどう昇華したらよいか、
全く見当もつきませんでした。
それほどに、
自分の無力さと孤独の只中に居ました。
そこには苦しんでいる自分を認める
と言う素直な感覚もまた、
麻痺していました。
孤独とは一人の寂しさのことです。
自らの内にある感情を吐露できていない状態です。
それを認識できないと、怒りに変換されます。
怒りは単独で生じることはありませんから。
孤独は世界観が崩れたと感じた時、
その中に取り込まれます。
世界は別に崩れていないのだけど。
そんな中、当時の私は
苦しくていろんなものを遠ざけつつも
その時の生活をやめるという選択肢を意識できず、
仙人ではない自分はどこかで誰かに
頼らざるを得ないとあきらめていました。
頼ることと遠ざけること。
当時の私が持っていたベクトルは、
その2つだけでした。
随分時間がかかりましたが、
それに気づいて世の中を受け入れることを心がけ、
自分が与える側に回ろうとして…。
自分の無力さに愕然としました。
いざ何かしようとしても、
何も与えられるものがない。。。
孤独の世界に吸い込まれそうになりました。
一人になるということが、
誰ともつながっている感じがしない、
世界中に一人だけ取り残された感じ、
世界の片隅に打ち捨てられた廃棄物みたい、
その感覚は、
自分が廃墟に自身を固定してしまった結果だ、
そう直感しました。
そうしていたのが例え自分だとしても、
崩れたコンクリートと
錆びた鉄骨と
かつて何か目的をもって作られた機械の残骸と
こぼれて風にさらされ続けたオイルの匂いと
そんなところに手足を縛られ、
猿轡をはめられた状態で放り出されたら、
おそらく誰も生きていけません。
現実世界には周囲に人がいて、
助けを求めれば手を差し伸べてくれるけれど、
自分が描いた魂の世界の中で
自分を縛って追いやっているとすれば、
それは他の誰にも救いようがありません。
他ならぬ自分自身がそうしている。
そんな時期の話を長々と書いてきました。
あなたはいかがでしょう。
安心と安定と豊かさを
抽象的に描く幸せの中に実現しようとして
躍起になって生きていて、
転職や起業で大儲けしようとしたり、
時間を手に入れようと動いたり、
外見を整えたり明るく振舞ったり、
素敵な未来を描こうとしたりして、
いろいろ行動するのだけど、
ある時ふと、
いやホントは以前から胸の奥底にずっと
気づいていることで、
『あること』が自分の一部となって
行動している自分の心を重くしていることを
直感的に察知していないでしょうか。
『あること』とは、おそらくは
単独の何かではなくて、
ちょっとした時間の中で、
形を変え、シチュエーションを変え、
何度か起こっていて、
その積み重ねが自分を追いやり縛り付け、
一人取り残されたまま
身動きできないかのような
心の牢獄を作り上げていたりします。
過去→現在→未来とつながる時間の中では、
過去という土壌に作られて、
歩み続ける現在を土台として、
想いを馳せる風景を未来と言います。
時間は未来から流れてくるという人は、
ある側面だけを切り取って
そう言っているだけです。
私たちの感覚に根付いた時間は、
過去と現在を無視したまま、
望む未来にはつながり得ません。
だからこそ、過去、現在の自分と、
自分を貶めたり傷つけたりしない方法で
もういいというまで向き合い、
土壌と土台、骨格をある方向、ある形に固める
必要があるのです。
理屈に走ることなく、
知っているだけにならないように
常に自分の感覚に問い、
感じるアンテナを平等に伸ばし、
自分を手放すことなく、
自分を侮蔑することなく、
自分を無視することなく、
自分に寄り添って
求める本質をつかむ。
それが完全にできなくても、
地道にそうし続ける時、
必要な人と触れ合い、
必要な出来事が起こり、
必要な何かを求め続けます。
そこに一人ぼっちのあなたはいません。
今どこで何をして働いていて、
誰とどんな関係にあって、
どんな生活をしているとしても、
怒りや憎しみを昇華し、
それでもやっぱりそこに居たくない、
そう感じるなら、
一人になることを怖れず、
新しい道を歩きはじめてはいかがでしょう。
人生に遠慮はいらない、
とはよく言ったものです。
そして、人生は短い、とも。
本当にその通りだと思います。
ー今回の表紙画像ー
『レモネード製造中』
毎年恒例。なぜか年を取ったら飲みたくなった。。。使う佐藤の量がすごいっすね。
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