裕福な私たち

日々の棚卸

賛否あるにしても、日本はそれなりに豊かな国だと思います。

貧困層、母子家庭、犯罪被害者、私のように肉親を自死で失った家族、あるいはどこまでそう言い切れるかはわかりませんが、北欧の教育や福祉のモデル、相対的な軍事力や政治力など、問題はあるかもしれません。これだけ借金背負ってるのにどこが裕福なんだ、そう言われる方もいます。そして、それらに焦点をあてて、機会あるごとにメディアや個人による行き届かない部分についての“指摘”が日々行われています。

メディアがそれを行うのは、特に政治に対しては権力の監視者という使命もあるでしょう。あるいは公的機関に対して、国民(弱者)の味方になるとして税金の使い方や法律の不備を批判することは言いやすいというのもあるのかもしれません。

しかし、相対的に見て、1億人の人口を抱える国で、多くの人々がそこそこ健康に生きられる日本という国はやはり豊かといって差し支えないと思います。

 

叔母から聞いた話では、母方の祖母の家は第二次大戦後、極貧の生活を送ったそうです。母も叔母も戦争の記憶なんてないはずだと思うけれど、そのことはさておき、彼女曰く、とにかく食べるものに乏しく生活は大変だったとのことでした。母も叔母も、まるで自慢話のように貧しかった子供のころの話をします。そこを生き抜いてきたんだぞ、と言いたいのかもしれませんが、子供だった私はただ黙って聞いているだけでした。

少し年を取って知恵がついてきた頃、さりげなく「その頃って町中がみんな貧しかったんだよね」と聞いてみたことがあります。返ってきた答えは、「我が家はそんな周囲の家と比べても群を抜いて極貧だったんだ」というものでした。

父とはそういった話をした記憶はあまりないのですが、父方の親類から、やはり似たような話を聞いた記憶があります。

自分の面倒を見てくれたこともある親類たちからこのような話を聞いても、昔の私は全くと言っていいほどピンときませんでした。おかしくなっていた家族の影響からくる反感も関係していた気もします。

ようやくそれらの話を素直に受け入れられるようになったのは、自分を受け入れることを学び、自分自身の恢復が進んでからのことでした。別の角度から言えば、その話に対して反感を持つ自分をも、突っぱねることなく受け入れることができたからというのもあるかもしれません。

 

税金とか法律の変化が生活へ与える負の影響について、その許容度に対する私たち一人ひとりの意見の総和を民意としたとき、現状はどの程度まで正確に反映されているのかな、と考えたことがあります。平たく言うと、私たちの民意はどこまで政治的に反映されているのか、ということです。税金は適切に分配されているのか、法律は必要なところに適宜用意・適用されているか、といったことですね。

 

おそらく不十分なところはあるでしょう。

不十分の中には、政治家(という私たちが選択した国民)の動きが不十分というのもあるでしょうし、一方で、人を助けたいけれども自分の身を削るのはこれ以上したくない、という私たち一人一人の(隠れた)意識みたいなものもあるでしょう。

きっと意見、考え方はいろいろあると思うのですが、そういった総和が現状に反映されていることは間違いないですよね。

国と民意の関係。

思うのだけど、これはそのまま個人にも当てはまるような気がします。

 

まだ過去を抱えて鬱々としていた昔、叔母に言い返したことがありました。

「物がない、(父)親がない、極貧だったというけどさ。根っこである原家族が壊れた経験ないでしょ。肉親が自殺で苦しんだ経験もないでしょ」

叔母はしばらく黙ってから「そうだね、ごめん」と言ってきました。

その時は、少しだけ胸がスッとした気持ちになり、同時に奥底に灰色の陰が宿った感じもしました。

灰色の陰。

今はその理由がよくわかります。

私は自分の境遇を自分の身になって叔母に伝えました。

あなたの経験したことのないつらさを味わったんだぞ、と。

ちょうど彼女らが私たち子どもに折に触れて貧しい子供時代の話を聞かせたように。

だけど、

あの何もかもが否定された時代、

生きるための食糧を皆が血眼になって確保しようとしていた時代、

古衣を使いまわして寒さをしのいでいた時代、

何より世界中から日本は悪そのものと突き付けられて何も反論できないほど弱り切っていた時代、

そんな時代を生きてきた人たちが、モノというモノがそろった時代に生まれ育った自分たちに対して、目一杯の心持ちで接し続けてくれたことを汲み取ることを避けている自分の狭量さ、余裕のなさを脇に置いた反論で、それが自らを苦しめている。

心に宿った陰はそこからきていることを理解していたからです。

これもまた、自分を受け入れる中でできた新しい余力、モノの受け止め方が気づかせてくれたことでした。正しい見方、考え方、という意味では言っているのではなく、自分に大切なことは自分を受け入れるほどに気づきとなって現れる、ということです。

 

私たちの中には、本当はまだ発揮されていない力が数多く眠っています。それらの力をきちんと発揮して、自分の状況をよくすることが私たちにはできるはずです。

そのためには、まず様々な自分を受け入れること。いつも言っていることです。

それが進むと、突き放していた自分の感覚がよみがえり、少しずつ心の余力が持てるようになります。心の余力が出ると、自分に不必要な、それまで慣れ親しんでいた不健康な自分や世の中に対する見方・接し方に気づかされる機会が増えてきます。気づきは、新しいけどどこか懐かしい、自分を受け入れたからこそ現れる世界を見せてくれ、それに見合った人との関係や日常が広がるようになります。

全て、自分の中に眠っていた、あるいは放置していた心というか魂のリソースをベースに生み出されたものなんですね。私たちはこれほどまでに裕福だということを示しているのではないでしょうか。。

世の中が悪い、みんな勝手だ、それがまともなモノの見方だと考えていた時期を通った私だからこそ、そう思ってしまうのかもしれませんが、自分の周りの人々も世の中も、自分のあり方の総和に対してそれに見合った側面を見せてくれていると私は考えています。

 

繰り返します。

自分を受け入れる。

最も大切なことの一つ。

それが進むほどに感じられるようになる自分の歪み。

その歪みを受け入れてくれていた世の中に対して感謝の念がわき、するともう少しこの世界とそこで生きる自分を含めた人々に寄り添おうと思えるようになります。

 

私たちは誰もが自分の中に、限りない豊かさを持っています。

それに気づくとき、世の中もまた豊かであると感じられるようになります。

 

ー今回の表紙画像ー

『五月のうろこ雲』