それやって何になるのって思ってた

日々の棚卸

 

この話を書くにあたって、

久々に思い出したことがあります。

 

大学に入って間もない頃のことです。

 

まだ、一人暮らしを始めたばかりの、

右も左もわからない10代の若造だった

頃のことです。

 

理工系だからか、

通った大学がそうなのかは

わかりませんが、

 

大学は理論と実験と教養の講義が

1週間びっしり詰まっていて、

当時まだ?まじめだった私は、

 

1つの講義が終了すると、

次の講義に向けてせかせかと、

古い校舎間を移動していました。

 

その日はちょうど今の季節、

初夏が始まる午前の

ある移動時間のことでした。

 

ふと廊下の窓からキャンパスを見ると、

その場に不釣り合いな綺麗な服を着た

小柄な女の子が歩く姿が目に入りました。

 

いえ、おじじになった今から思い返せば、

あの年齢の子は男女問わず、

皆それなりに魅力的だと思いますが、

 

彼女が目に入った理由は、

きれいとかよりも、

その違和感にありました。

 

その姿に似合わない大きなバッグを持って

よろよろと歩いていたからです。

 

バッグは遠目にもわかるブランド物で、

何か重い物が入っているのか、

彼女は半ば引きずるようにしていました。

 

あんなきれいな洋服を着て、

そのバッグとその歩き方?という感じで、

シュールな光景を横目に追いつつ、

 

一緒に移動中だった友人ともども、

次の教室の入り口にたどり着くと、

担当教授が既に中でスタンバっていました。

 

慌てて教室に入るところで、

 

彼女が数名の人に囲まれているのが

見えました。

 

 

そこから幾ばくかの月日が過ぎ、

原家族の形が壊れてからしばらく、

何もやりたくない日々が続きました。

 

何かをやろうとしても

心も体もついてこない、

という状況も含みます。

 

自分の周りで起こることはもちろん、

世の中で起こることが何もかも

白々しく感じられて、

 

何かに取り組むことはおろか、

何かをあきらめることさえ、

どうでもよいことのように思えたのです。

 

今なら、

トラウマや家族病理の知識があるので、

 

自分が置かれた状況と症状が

どのように関係しているのか

よくわかりますが、

 

当時は、動かない体と心で取り組もうとする

あらゆるものごとの先に

×点が巨大な壁のようになってあらわれ、

 

それは自分が取り払うにはあまりに巨大で、

しかも自分にはもうそんな力も心の余裕も

なくなってしまっている、

 

そんな感じでした。

 

周囲がスキーや車、飲み会に恋愛の話で

盛り上がって、

 

こちらに振られてくると、

適当に受け流しながら、

こう思っていました。

 

「そんなことやって何になるんだ?」

 

再びいろんなことにチャレンジし出すまで、

しばらく時間を要しましたが、

 

その間私の中を支配していたのは

そんな思いでした。

 

 

自己啓発やセラピーに限らず、

自分らしく生きるために、

楽しいこと、ワクワクすることをしよう、

 

と言われて、ずいぶん経ちます。

 

私自身が心の恢復を試みる中で、

繰り返し聞かされてきた台詞でもあります。

 

教える側、語る側とすれば、

方向性を示すという意味では、

必要な示唆であるのは間違いありません。

 

同時に、この言葉、つまり、

楽しいこと、ワクワクすることに惑わされて、

 

本来取り戻すべきものを見誤ることが

なんとも多いとも感じています。

 

養老先生流に言えば、

あーすればこーなる、と言っている

ように聞こえるのでしょうね。

 

そう感じる中には、

自分を再統合し、過去と和解するまでに

時間を要した者のやっかみもあるのかな(汗)。

 

何が言いたいかというと、

自分の中から湧き上がってくる気持ちを

無碍に扱わないでください、ということ。

 

湧き上がってくる気持ちは、

必ずしも正しいわけではないけれど、

 

あなたに必要なメッセージを

何某か含んでいるからです。

 

今回のタイトルの一部、

「それやって何になるの?」と

胡散臭さとともに思ったことがあるならば、

 

そこにはとても大切なメッセージが

はいっているのではないでしょうか。

 

つまり、

「それやって何になるの?」と思ったなら、

そう感じる心の裏側/奥底には、

 

「何かをやって、どうなりたいの?」

という問いかけをしているのでは

ないでしょうか、ということです。

 

そして、問いかけている先は、

おそらく、

 

あなた自身です。

 

「それやって何になるの?」

に含まれるのは、

 

そんなことやったところで、

 

自分が欲する、

失ってしまった、

見失ってしまった、

壊れてしまった、

消えてしまった、

あると思っていた、

 

何かを(もう一度)得ることが

できるとは思えないよ、

 

ということ。

 

そう思うのは、今のあなたにとっては、

おそらくは間違ってはいないのでしょう。

 

「それやって何になるの?」という

言葉が出るほどに、

 

自分と自分の周りと世の中に

白々しさ、わざとらしさを感じて

いるのだから。

 

この場ではよく、

 

自分を受け入れること、

遠ざけている自分と邂逅すること、

それを継続すること、

 

の大切さをお話ししています。

 

同時に、最初の内はそれをやっても、

どうにも胡散臭さを感じるかもしれない、

とも。

 

しかし、あきらめることなく続けるうちに

 

ふっと大切なことを思い出したり、

もう一人のあなたと再会するかもしれない。

 

その時には、無視しないで、

手を取り合って、じっくり向き合って、

自分の一部として大切にしてください、と。

 

「それやって何になるの?」にも、実は、

似たような位置づけと解釈が

当てはまります。

 

何になるかわからないけれど、

やってみることを何度か繰り返したら

 

ちょっと楽しかった、となるかもしれないし、

かつての没頭した自分のほんの一部を

おもいだすかもしれない。

 

文字通り新しい世界を得られるかもしれないし、

出会いだってあるかもしれない。

 

もちろん、何にも起こらず、

何となく立ち消えてしまうかもしれないし、

時には嫌なこともあるかもしれない。

 

でも、「それやって何になるの?」と

感じているあなたにとっての

世の中を形作っているフレーム、

 

つまり白々しさ、胡散臭さの外側

感じられる可能性があると思うのです。

 

ちなみに、

同じ、ではなく、似たようなと言ったのは、

 

邂逅する自分の一部と異なり、

楽しさを求めたり、チャレンジしたり

を繰り返す中で、

 

必ずしもそれが自分にとって

楽しんだり没頭出来たりするものとは

限らないからです。

 

それならそれでいい。

 

単に自分に向いてなかっただけかも

しれないし、その時の自分では

まだ楽しみ切れなかっただけかもしれない。

 

でもそれは、

「それやって何になるの?」

の世界の中に閉じこもったまま、

 

感情が死んだ状態の頭で

シミュレートしてわかるものではありません。

 

「それやって何になるの?」が

白々しさ、胡散臭さと共に出てくるとき、

 

そこには大きな喪失が絡んでいることが

少なくありません。

 

それを取り戻そうとして

その方法も力を求めたくても

その当てがない時、

 

私たちは文字通り途方に暮れます。

 

いえ、途方に暮れてしまう寂しさに

耐えることができずに、

 

「それやって何になるの?」と、

世の中を疑うようになることがあります。

 

これを長く続けていくと

どんどん人生がおかしくなってしまう。

 

変えられるはずの自分を顧みず、

変えられない外部と斜に接していても、

孤独になるだけです。

 

その世界から脱するために必要なことは、

蘇らせることと新たに生み出すこと

 

「それやって何になるの?」の

外に出ることは、その一端です。

 

ちなみに、私が社会人になってから

始めたこと。

 

・ハイキング

・山スキー

・ダイビング

・スノーボード

・ヒップホップダンス

・自動車

・飲み会

・キャンプ

・バーベキュー

・読書会

・心理カウンセリング

などなど。

 

二つ三つのぞいて

いつの間にかやらなくなったけど、

 

やって楽しい時間の中で、

新しい見方、新しい経験、

思い出したことが随分ありましたね。

 

こう書くと、スムーズにいったように

読めるかもしれませんが、

 

実際にはそれこそ、

 

右往左往したり、

時に人と衝突したり、

つまらない結果になったり、

 

ということも随分あったんです。

 

 

最初の話に戻りますね。

 

想いバッグを半ば引きずるようにして

キャンパスを歩いていた女の子の話です。

 

学生当時、所属していたサークルで

女の子たちから聞いた話によると、

万引きだったとのこと。

 

未遂で済んだのがすくいでした。

 

彼女は一つ上の学年で、

前年に両親が離婚、

新しい家庭環境になじむことができず、

 

徐々にいつも一緒にいた友人たちから

はなれていった、

という状況だったそうです。

 

人によっては、それだけのこと、と

思うかもしれませんが、

 

ほぼ全てのティーンにとって、

原家族は心の根本的な拠り所の一つです。

 

そこで私たちは、

 

世の中とはこうできている、という前提を

実践されていることを通して学び、

世の中と接します。

 

世の中の前提が崩れた環境で育ち、学ぶと、

様々な“症状”を呈することがあることは

既に“常識”となっています。

 

“症状”が意味するメタファには、

代償の何かで失ったものを取り戻そうという

無意識が働いてることが多いものです。

 

それは、「それやって何になるの?」と

あきらめとともに感じている人にとっては

他人事ではないように思います。

 

現実が混乱していたり、

万策尽きた感じで暗い感情だけが

蔓延っていたりしながらも、

 

何とかしようとしているなら、

今回の話が何かのヒントになれば幸いです。

 

ー今回の表紙画像ー

『雨後の川』

週末の暴風雨で川は泥濁り。水がかなり上まで上がってきていて、草木がなぎ倒されていた。

そんな濁流の中でも、川に入ってアユ釣りをする人の姿が。。。

ここで一句。

「初夏の川 泥水鮎追う 強者ぞ」

おそまつ。。。