私はまだ社会人ではありませんでしたが、
バブル時代を知っています。
1980年代後半ですね。
日本の経済は、私が生れた時から
右肩上がりで、1985年のプラザ合意で
円の価値がドンとあがって、
もともと豊かになってきていた日本は
お金の面では、
世界一の債権国になりました。
良くも悪くも誰もが今より仕事に執着的で
不動産を始めとする有形の“モノ”を
手に入れようとしていました。
世界では、ベルリンの壁が崩壊し、
ソ連邦が崩壊し、冷戦が終了し、
「冷戦は終わった。日本が勝ったのだ」
などと皮肉を言う米国人もいました。
それから数年後、バブルがはじけ、
失われた20年とも30年とも言われる
長い経済の停滞が続き、
物欲の意味が大きく変わりました。
仕事、家庭、人の付き合いなど、
順調だった人生が、バブル崩壊をきっかけに
暗転した人もいました。
ダメージを受けた人々を中心に、
それまで考えることもなかった
家族とか仕事とか生きることとか、
常識と思い込んでいた、
幾つもの根本的なことを疑うようになり、
混乱をもたらしました。
当たり前が当たり前でなくなる世の中では
それまで当たり前として自動的に行ってきたことを
考え直す必要がありました。
良い大学を出て良い会社に勤めて、
素敵な人を見つけて結婚して、
マイホームを建てて老後は悠々自適、
そんな画一的な生き方には無理があることは
ずっと以前から折に触れて囁かれていましたが、
それが動かすことのできない現実になった、
そんな時期でもありました。
そんな現象を受けて、
生きることに酔うことができなくなった
と言った某精神科医もいました。
クルーグマンのように、
日本の実質賃金は下がらなかったという
学者もいるのは事実ですが、
ともかくも今の私たちは、自分が望めば、
あの頃より多種多様な価値観の中にる一方で、
自分が欲する“モノ”を見失っています。
“モノ”より“コト”だと言う人がいて、
いやいや最後に笑うのはお金だと言う人もいて、
普通が一番だと言う人もいて、
いろんな人がいろんな意見を言い、
それらが必要以上に簡単に耳や目に飛び込んでくる、
そんな世の中にもなりました。
★
ずっと昔、十数年前、とある通信に、
定期的にコラムを書いていたことがあって、
その第1回目は、確か
私たちはどうなりたいんだろう、
というニュアンスだったと記憶しています。
その時の私の答えは、
スイスの精神科医であるカールユングの言葉、
『一体性(Wholeness)』でした。
これが欲するものの全てではないけれど、
今もそれは変わりありませんし、
これがない限り、継続して幸せで居続けることは
どれだけ“モノ”を獲得しても
どれだけ“コト”を積み上げても
誰一人いないのではないかと思います。
当ブログでも、表現を変え、シーンを変え、
繰り返しお話ししていることの一つです。
欲するものが“モノ”だろうと“コト”だろうと
自分の考えや想いと、
現実の言葉や行動との乖離が続く間、
私たちの世界観に『亀裂』『断裂』が
存在しています。
魂、感情、自我、何でもいいのですが、
ともかくも私たちの中にいる
様々な私たちを結び付けて、
私たちたらしめている『一体性』が
削がれ、割れ、断裁され、その一部を見失い、
その凄まじい、猛烈な痛みが、
時に恨みの放出、
時に鬱やBPDや適応障害、
時に無気力、
といった症状を呈する、
様々な障害を引き起こし、
いわゆる自分という存在が機能停止状態に
追い込まれることになるわけです。
世の中の(優れた)カウンセリングや精神医療で
自分と和解することを説いているのは、
そういった理由からです。
★
何が欲しい?は、
どうなりたい?であり、
どうでありたい?でもありますね。
生きることに正解なんてないことは
誰もが知っているはずだけれど、
どこにあるのかもわからない
“正しい”理屈や基準を探して、
自らの人生を、
なるべく痛い目を見ないようにして、
なるべく効率よく“モノ”を得て、
それらを正解の代わりにしようとして
しまっているのが、
今の私たちではないでしょうか。
喜びで体が震えるような状況、
嬉しくてぞくぞくするような出来事、
こうしていたいと悦に感じる状態、
体感であり、胸に迫るものであり、
落ち着いたところであり、
達成したいことであり、
そんなもっとも自分に依拠した何かは
『一体性』のもとで自分の中に
自然に存在するシーンとつながっていて
あなた以外の誰にもわからないところから
生れ出てくるものです。
両親と囲んだ幸せな食卓の感覚を
多くの人にも感じてもらいたいと
レストランを経営したり、
友人と言ったキャンプや登山に救われた人が
その喜びを今に悩む人々に経験してもらおうと
スクールを始めたり、
子育てに生きがいを見いだした人が
保育園を経営したり、
言葉に助けられた人が本を書いたり、
それらは理屈の上ではどれもその通りですが、
その行動の素となる感動や原動力は、
様々な自分を分け隔てせず肯定する
『一体性』なしには、
本当の意味で得られないのではないでしょうか。
やりたい“コト”、欲しい“モノ”は
自分で考え、行動していく中で
獲得していきます。
行動は自らを嫌ってはなかなか始められないし、
仮に動けたとしても
自らとのつながりが得られないままでは
行動自体もその結果も臨場性と信頼を伴って
次につなげることが困難です。
私たちという存在の『一体性』の獲得と、
自らに自然に存在する、
本当の意味で欲しい“モノ”とは、
私たちの中の深いところで、
繋がっているのだと思います。
ー今回の表紙画像ー
『束の間の青空』
週末で混むのを覚悟して、川へ釣りに行ってきました。
昨日の稲光する黒雲軍とは打って変わって、白い夏の雲と青空が広がり、じっとしていても汗がしたたり落ちてくる。。。
竿を用意していると、にわかに黒雲と遠雷が。。。
いそいそと逃げ帰ってきました。
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