批判に苦しむ奥にあるもの

日々の棚卸

 

学生の頃、

研究室では輪講会というのがあって、

日常的に海外の論文を訳して、

研究員の間で発表することを

その週の当番を決めて行っていました。

 

英語で書かれた理系の論文は、

受験英語や日常会話と異なり、

専門用語や独特の言い回しを理解して

何を伝えようとしているかを

イメージすることが必要となります。

 

私にとってこの頃は、

数年前に父が家を出て、

離散した家族の崩壊が不可逆的であることを

認めざるをえなくなっていて、

 

世界の見え方、感じ方が

大きく悪化していた時期とも重なります。

 

今にして思えば、あの頃の自分は、

家族離散の原因を

自分の頑張りが足りなかったため、

という理不尽な思い込みに求めていて、

 

自らを凄まじい勢いで責めながら

そうしていることに気づくことなく、

自分がどれほど無能無力無価値かを

“実感”していたために、

 

それまで機能していた能力が

どんどん低下していた状態だったのですが、

そんなことに思いを致す余裕はありません。

 

当然というべきか、

何かに集中して学ぶ、

抽象的な概念をイメージする、

 

などということができなくなっていたため、

輪講会の発表は内容も準備も

十分ではないことが多かったのが

実情でした。

 

当時はパソコンはまだ高価で、

発表は資料を透明なシートに書いて

OHPなる光投影シートでホワイトボードに

投影して行っていたのですが、

 

シートを一枚めくるたびに聞こえる、

担当教授の言葉の端々に、

ダメ出しをされているように感じていました。

 

そもそもが、日常生活の中でさえ、

たとえ親しかったとしても、

周囲の人々と接する度、

自分をダメ出しされているような気がして、

 

自分の中のセルフイメージが

ボロボロの状態だったから

小さな、ほんとうに些細な批判にさえ、

文字通り世界が自分を敵視しているように

感じていたのですが、

 

それを生み出していたのが

猛烈な、壮絶な、想像を絶する

自己批判の投影だったことは

今ならよくわかります。

 

別のところで書いたように、

夜の街を歩いていて、

交通標識や公園の木々に潜む影に

見張られているような気がしたのだから、

 

ある意味目も当てられないほど

ひどい状態だったのですね。

 

 

世の中に批判されない人はいないですよね。

 

社会に繋がっている以上、

誰もがどこかでは批判を受けることは

あると思います。

 

批判の質も様々ですし、

自分の心身の状態によって感じ方が異なるのは

上述のとおりです。

 

もちろん批判する側の態度、面持ちなども

大きく影響するでしょう。

 

傍から見れば、

批判と言うより、提案とか示唆なのに、

それを受けた当人が大きく反応して、

相手に腹を立てることもあれば、

 

言い方や言葉の選択、口調、振る舞いは

パワハラまがいであるにもかかわらず、

批判された側が激しく落ち込んで

一緒になって自分を責める、

 

などということもあります。

 

批判をする側とされる側の

双方の状態によって

どう解釈するかが変わってくるわけですね。

 

先に述べた通り、

誰もがどこかで批判はされるでしょうし、

批判を受けるのは辛いことですが、

 

変えられないものは変えられない、

批判する人を変えようとしたところで、

無駄な労力の発生と共に、

こちらが疲弊するだけです。

 

批判は仕方ないにしても、

せめて不快、不愉快な思いは

自らの対応で最小限にしたいものです。

 

どうしたらよいのでしょうか。

 

 

意外にはっきりと言い切る人は

多くないようなのですが、

嫌なものは嫌だ、ということを

最初に抑えておきましょう。

 

自分個人を客観視することはあっても

仕事であろうと遊びであろうと、

受ける側が厳しいと感じれば嫌なものですよね。

 

その嫌な感じを相手に仕返ししようとするから

おかしくなるのであって、

 

傍から見てどうであるかの前にまず、

受けている批判の

 

言葉

口調、

振る舞い

態度

 

などが嫌なものであれば嫌だと自分で

感じたことを明確にしてみることです。

 

きついことを言われるのは

誰にとっても苦痛です。

私たち人間はそういう風にできているからです。

 

普通と呼ばれる環境が

どういうものを指すのかはともかく、

普通と言われる人でさえそうなのだから、

 

過去の苦痛から脱しきれてない状態なら、

その過去を重ね合わせて

批判でもないものまでも批判と感じ

通常の批判をパワハラにように感じ、

 

それでいて

パワハラまがいの厳しい言葉や揶揄の態度には

諦めで対応する、

 

ということが起こりがちです。

 

だからまず、

変に良い子になって、

特に上司や力のある人からの)批判に、

従順になりすぎたり、

反対に反発ばかりするのではなく、

 

理由はどうあれ、傍から見てどうあれ、

嫌なものは嫌だという認識を

しっかり持つこと。

 

その上で、

相手に仕返ししようとするのではなく、

自分が“反応”してしまっているが故に

そう感じていることも、

最初は知識でよいから知っておくこと。

 

そして、自分の能力を

必要以上に低下させないために、

 

批判に同調して一緒になって

自分を批判するもう一人の自分に

気づいて、とめること。

 

そうやって“しのぐ”ことと並行して、

いつも申し上げているように

突き放していたり、見ないようにしている

もう一人の自分を探して、

一体化する作業を続けてること。

 

それらを継続することで、

 

パワハラまがいの厳しい言葉や揶揄の態度には

毅然と反論して対応するようになり、

 

批判は批判として受け止めながら、

相手の“感情”はスルーできるようになり、

必要に応じてそのエッセンスはしっかりと理解して

吸収するようになります。

 

お読みのとおり、

批判の受け止め方は理屈だけではなく、

自らの過去と感情の整理と色濃く関係します。

 

だからこそ、

今いまの批判にその場で反応することを

少し抑えてみて、

 

大切な自分の人生の各時期の整理を

することに意識を注いでみましょう。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『麻婆豆腐辛口』

いつも中辛なので、ちょっと変えてみた。

それにしても、賑やかな食卓だな。