日常生活は、ほどほどに生きていれば、
ほどほどのところに収まるのが望ましい。
少なくとも、そうでなければ
なかなか続けられるものではありません。
常に100%フルの力を発揮して
日々を生き“なければならない”
となると、
これはよほど追い込まれた状況でしょう。
まして、
自分を超える力を出し続ける
必要があるということは、
そうそうありません。
ご飯を作って、
服装を整えて、
仕事をして、
成果を出して、
周囲の人とコミュニケーションをとって、
自分のケアをして、
好きなこと、人、ものを見つけて
接して、
休息をとって、
将来に向けた十分な蓄えを作って、
人並み以上に早く家を建てて、
ローンを返し終えて…。
これらを24時間1年365日
ずっと100%以上の力で
続けなければならないのであれば、
私なら倒れます。
漫画でも、
釣りでも、
商売でも、
サッカーでも、
楽しくて、のめりこんで、没頭して、
気が付いたら120%の力で取り組んでいた、
というならいいですけどね。
実際、楽しさとか没頭とは無縁の状態で、
全力を出し続けて生きている人は少なくない。
「100%なんて、全力なんて、出したくても出せない」
そういう方もおられるかもしれません。
でも、少なくとも
そうやろうとしているという意味では、
同じこと。
力を抜くことの威力を知った後では、
とてもではありませんがそういう働き方、
生き方をすることは私には無理だし、
そもそも人が生きる上で
そのやり方には圧倒的な無理があります。
…でも、繰り返しになりますが、
なぜかこれ以上ないほど
いきり立って仕事をし、
へとへとになるまで人の関係に気を使い、
勉強をし、
資格を取得し、
果ては歩く姿にまでこだわり、
家に帰るともう
何かをする気力もなくなっている。
体力の問題ではないし、
精神力とも違う。
自信の欠如、
自分の声を聴いてこうやって生きていこう
ということを日常の様々な場面で
やってくる機会をほとんど持たなかったために、
何かに操られるようにして生きている。
きっと、社会人になって
突然そうなったわけでもないのでしょう。
ずっとそういう生き方を
してきたのではないでしょうか。
努力して、
頑張って、
必死になって、
自分を振り返ることもなく、
目標を達成しようとして、
ゴール(かどうかもわからないところ)を
駆け抜けようとして、
では、その先に
何があると思ったのでしょうか?
そこにたどり着いたら、
自分はどうなると感じていたのでしょうか?
それはホントに幸せだと
心の底から想像できたのでしょうか?
その感情のおおもとは
いったい何なのでしょうか?
よーく、ホントによ~~~く考え、
自問してみてください。
親の生き方、躾、教育、願いは
私たちの生き方に対して
確かに莫大な影響を与えたと思います。
当たり前ですよね。
そこには、正しいものもあれば、
歪んだものもあったかもしれません。
その見え方のために、
あるいは当時の自分たちには理解不能で
苦痛に感じるだけだったものも
あるかもしれません。
いずれにせよ、それらを取り込み、
今度は、世間、先生、メディア、職場などから、
同種の影響を見出して、
取り込んだ見方を強化するように解釈し、
自分の中に吸収していきます。
そこにはまるで、
自律的に働く内臓器官のように、
そういったことを選択的に取り込む
心の動き、皮膚感覚の作動があります。
人は無意識のうちに、
親との間で醸成された愛着を
無意識に定着させ、
維持しようとして、
それを担保するような
世の中、生き方を選択していきます。
つまり言い換えれば、
理由はどうあれ、
その生き方を選択したのは
私たち自身である
という揺るぎのない事実です。
ここを認められるかどうか!
最初は頭での理解からでもいい。
批判したくなるかもしれません。
教えられて、植え付けられてきたんだ、
というかもしれない。
その通り。
そして、
それを実行したのは他でもない、
私たち自身です。
考える頭も、動く体も、感じる心もあって、
そして選択した。
もう一度言います。
私たちが選択したんです。
なぜでしょう。
そこまで頑張って、
何をどうしたかったんでしょう。
誰の、どんな、何かのために、
そうしたのでしょう。
それは、自分にとって
どんな意味があったんでしょう。
ほんとは、この一つ一つの問いに、
答えがあるはずです。
それを見ないことにしたり、
見る余裕をなくしたりして、生きている。
自分なりの答えを用意してみてください。
そして、怒り、涙を流し、自分の中に受け入れ、
それからもう一度自分に問うてみてください。
これから、どうやって生きていきたいか、と。
今度は少し、異なる答えが出てくると思います。
今よりちょっとだけ、しっくりくると思います。
あとは、実践する勇気だけ。
ー今回の表紙画像ー
『休日の川の土手』
よく晴れていたけれど、めずらしく土手に人の姿はなかった。
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