現実が迫ってくるとき

日々の棚卸

 

すりガラス越しに世界を見るような感覚、

という表現があります。

 

抑鬱を患った方の目に見え、耳に聞こえ

認識する世界がそのように感じられる時に、

使用される表現です。

 

見たくないこと、聞きたくないことが

自分の前で起きていて、

 

それが長く続くうち、

 

その世界に接していることに

どうしても耐えられないと感じた心、脳が

世界をぼんやりと不明瞭に見せることで

 

仮初の精神状態を保たせるときに

起きることが多い症状です。

 

例えば、

 

目の前に生じ続ける世界が

辛くて仕方ないにもかかわらず、

何をしても何を言っても変えられそうになくて、

 

しかも、

 

自分がそこから逃げ出せなかったり

大切な人々の間で生じているが故に、

逃げる選択肢を放棄していたり、

 

そんな時に生じます。

 

仮初の、と書いた通り、

心や脳がこの状態を取るのは

一時しのぎに過ぎないのですが、

 

当人にとっての世界観、

つまり、ものの見方、受け止め方、

それらとコインの裏表の体に生じる感覚が

変わらない場合には、

 

一生続くこともあります。

 

目に映る風景も、

耳に入ってくる音も、

触れ合っているはずの人の肌の感覚さえもが

 

まるで自分ではない別の何か・誰かを介して

伝えられてくるような

そんな状態です。

 

 

前回も書きましたが、

ある頃から顕著になった

父母の愛憎劇とさえ言えない

互いに悪意をぶつけ合うコミュニケーションと

 

それが臨界点を超えて

学生の頃に起きた原家族の離散が

戻りようのない現実として認識した頃から

 

徐々に世界の見え方、感じ方が

変わっていきました。

 

頭では、親の離婚も泥仕合も

世の中ではよくあることだ、と

言い聞かせるのですが、

 

感情はついていきません。

 

理屈や統計の話ではなく、

世の中の他の人々がどうであれ、

 

自分にとってとても辛いことが起きているのだ、

という自分にとっての事実を

正面から受け止められなかったために、

 

自分に生じた感情と体の感覚を

放置したまま、

 

それまでと同じような世界観に基づいて

同じように人と接し、世界と接し、未来を考えていて

 

その一方で、

自分の世界観についていけなくなっている

自分がいて、

 

そのギャップと、

混乱から抜け出す術を思いつかない

当時の私自身が

周囲をぼやけて見せる世界を作り出しました。

 

自分の身をどう呈すればいいのかわからず、

自分が世の中に存在していることへの

罪悪感のようなものがあって

 

目の前の友人たち、

目の前のキャンパス、

目の前の食事さえもが

 

何だか自分とは異なるところにあるように、

同時に、

あらゆる存在から非難されているように感じられ、

 

そんな、

周囲からすれば理不尽な感覚によって

徐々に私自身をすりガラスの向こうの世界に

置くようになる時間が増えていきました。

 

ともかくも、その世界から脱して

自分の素の感覚を取り戻し、

何より信じることができるようになるまでには、

 

これまでにも書いてきたように、

 

自分の内面や体の感覚と何度も向き合い、

自分が見失っていた自己と邂逅し、

一体化することに努め、

 

自分の中に眠っているいくつもの

懐かしい原風景と呼ぶ素敵なシーンを蘇らせ、

新しい人々と出会い、親しくなり、

 

といったことを心理を学ぶことと並行して

実践してきたわけですが、

 

今から振り返ると、

その過程で起こった出来事には共通点がありました。

 

 

過去にとらわれ、

時間の向こうに意識をやっている間、

現在自体が虚構になっていたり、

 

変化してもしなくても、

周囲の出来事が常に

自分の意思とは無関係に起きていた時期には、

 

仮にその世界から脱しようとしても、

もっと不幸な誰かと比較して

自分は何をやっていると追い詰めたりして

逆効果にしかならないことをしてしまい、

 

結果として、脱したい世界に留まり続ける、

ということが起こることも少なくありません。

 

その状態を超えて、

自ら選択を“自覚”した行動を起こしたとしても、

望む結果が起こることは多くはありません。

 

最初のうち感じることはたいてい、

望んだ何かとは異なることで、

 

接した人の反応の悪さだったり、

目の前に起こる良くない出来事だったり、

予想外、予定外に何かを失うことだったりします。

 

それでも一つだけ言えることは

それまでのすりガラス越しに

見聞きし接した世界と異なり、

 

生々しい現実が迫ってくるということです。

 

実は、これこそが最初の変化です。

行動の結果がどうか、などは

その後についてくるものです。

 

目にする風景は気がつくと鮮やかで艶やかで

道端の石ころさえもが

息づいているように感じられることもあります。

 

その延長上で気づくこと、

それは、

 

一見対立しがちな人の間にある優しさ、

当たり前と思いがちな身の回りの恵み、

 

生きていて、

動く体があって、

信じる世界があることのありがたさ、

 

などで、

 

時には辛さや胸の痛みを

感じることもありますが、

 

それは

すりガラス越しに世界を見るようになる前に、

強制的に抉り込まれたような感覚とは異なる、

新しい自分の産みの苦しみのようなものです。

 

同時に、

決して派手に生じるものではありませんが、

 

町も

人も

街路樹も

川も

ビルも

空も

アスファルト道路も

鳥も

車も、

 

本当に何もかもが、

自分が存在する世界の一部として

感じられるようになっています。

 

文字通り、現実が迫ってきているということです。

 

時にはそんな感覚が、

オーバーフローしそうになる時もありますが、

 

それはまごうことなき、

あなたが自らつかみ取った

愛しい世界そのものなんです。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『夏の終わりのタコの酢の物』