長く続く怖さに苛まれる時は、一瞬でいいから立ち止まって考えよう

日々の棚卸

 

日々の仕事の中で、

目の前に命を取られるような

明らかな危険がないにもかかわらず、

背筋が凍るほどの恐怖にも似た

不安、怖さを感じることはないでしょうか。

 

目の前に恐怖の原因があるなら、

当然ですが逃げた方がいい。

暴力を振るわれるなんて、その際足る例。

でも、私たちは往々にして、

思い込みから不安を増大させて、

架空の存在や過ぎ去った出来事、

そうなるかどうか分からない未来に対して、

恐れを抱いて、勝手に先走って、

勝手に逃げ出して、

勝手に後悔していたりしないでしょうか。

 

今回はそんな話です。

 

1.反応する体

仕事で評価にさらされる日々を続けていると、

怖さにくるまれることが度々ありました。

サラリーパーソンをやっていると、

自分の選択とかけ離れて実行せざるを得ない

行動の結果に対して

責任を問われることが生じます。

多少なりとも自責で進められるよう

無い知恵を絞るのだけど、

それにもやっぱり限界があるもの。

周囲に対して文句を言ったり、

助けられてばかりで感謝したりしながら、

自分を小さく扱うようになってしまい、

行動の選択への影響が出てきます。

選択なんてしている暇はない、

選択する自信がない、

選択肢に気づかない。

 

この時、行動の内容が自分の実力と

かけ離れて優れた結果を求められるほど、

評価にさらされる魂と体は

「これ以上はもう無理!」と

拒否反応を起こします。

優れた結果と言っても、

他の、経験がある人がやれば

ほどなく結果が得られるはずの

ものだったりもするわけで、

自分の至らなさが周囲と会社に与える

悪い影響を想像しつつ、

一方で結果を得るための手段も不明のまま

体が凍り付くほどの怖さを感じます。

これはもちろん仕事のこととは限りません。

私は、過去にそんな感覚に

苛まれたことがありました。

家族の離散、肉親の自死といった

家族のことから、

突然配属された部署で任されたマネジメントで

何をどうしたらよいかわからず、

周囲の部署まで巻き込んで

混乱に陥れてしまったことで、

パニックを起こしたことです。

 

2.怖さの種類 ~ 不安は怖さの種

じわじわと迫る怖さで

身動きが取れなくなる前には、

前兆があることが多いと思います。

前兆とは、直前、と言う意味ではなく、

そこに至る経緯の中で、

決して自責と言う意味ではなく、

なるべくして怖さを味わうような状態を

作り上げる生き方をしてしまっている

ということ。

ここでいう怖さとは、

特に家族や友人、会社の中など、

ある程度以上に見知った人との関係、

つまり一定程度の利害が生じる間柄で、

自分が被ること=浴びせられ“続ける”言葉、

振舞われる態度、

処される待遇、

などを言います。

そんな時、自分の中にある生き方の軸

- 大切なこと、人、環境は何か、

今の仕事の位置づけは?

どう生きていくことが自分の本音なのか -

つまり、有名な『7つの習慣』でいうところの

緊急ではないが、重要なことに該当する

部分が明確でないと、

相手に迎合する(反発はその反動)だけに

なってしまう。

真剣に生きているが故に、これは最も、

自分を苦しめる結果を招いてしまいます。

この間ずっと続いていた不安は、

自分の中の曖昧さを媒介して増幅し、

やがて恐怖に変わり得ます。

今の自分の立ち位置がわからなくなった、

今の自分が何を感じ、考えているのかが

信用できなくなった、

未来が見えなくなってしまった、

そんな状況です。

 

3.自分を襲ってくる感覚を見極めよう

不安が恐怖になってくると、

体に現れる症状が明確になってきます。

仕事は手につかず、

恒常的に頭の中は真っ白、

焦りで思考は回らず、

それらが自分の中に

本来備わっている能力を鈍らせる。

クリニックに行けば、

パニック、適応障害などと

名付けられるでしょう。

応急措置で薬をもらったり、

話を聞いてガス抜きしたりはするけれど、

どうにも本質的な改善が感じられない。

これから先、また同じような状況が

続くのだという感覚から逃れることは

極めて難しい。

 

この時、誰の中にももう一人の、

その状態、症状を観察する自分がいます。

「いや、いない!」

と言われるかもしれませんが、

私はあえて、

感じられていないかもしれないけれど、

きっといますよ、と言わせていただきます。

今この瞬間に

命をとられるわけでないにもかかわらず、

震えるような怖さ、

絶望的な感覚を

皮膚と胸の痛みとで感じているとき、

その中に潜む感情の本質は、

単に目の前の事象と言うにとどまらず、

どことかもっと別の場所と

つながっているのではないでしょうか。

特に、今の状況が

自分の望みとか楽しさから始めたことから

大きく隔たっている場合、

別の場所は心の奥深くに眠っていたり

しないでしょうか。

 

4.自分の一体性に基づく人生を歩む

自分を受け入れ、肯定し、

セルフイメージを高めることの大切さは

よく言われます。

でもそれを実践できるのは、

多くの場合、

ある程度心身の状態が安定的な時です。

ここまで述べてきたように、

追い込まれていたり、

パニックになっていたりする時には、

とてもそんな余裕はないと

感じるのが多いものです。

しかし、人生が終わったり、

命が途切れるのならともかく、

そうではないのであれば、

ダメならきっと別の道があると信じた上で、

ここ、つまり今うまくいっていなくて、

どうにも対処のしようもなくて、

パニックになっている自分、

追い込まれている自分を

しっかりと感じて、

その自分に寄り添い、

抱きしめ、

対策を練ることです。

 

仕事のことでいえば

不慣れだったり、

経験しないとわからない業務であっても

それがこなせるようになるなら

もちろんそれはそれでいいでしょう。

もしどうしても受け付けないのであれば、

ここまでの自分の尽力を

自分自身で認めてあげた上で、

地位を降りるなり、

部署を変えてもらう申請をするなり、

転職活動をするなり、

休むなり、

あるいは退職するなりすればいいと思います。

仕事は、自分の価値のほんの一部であると

誰もが頭では理解しています。

しかし、体と感情は残念ながら、

そこまで分けて感じられないという人が

多数であるように見受けられます。

 

ポイントは、後の行動ではなく、

今この追い込まれた状況の時に、

どこまで自分を認めてあげた上で動くか

ということです。

みじめで

何もできなくて

周囲に迷惑ばかりかけて

自分は最低で、

人によっては返す刀で腹も立てて、

“そんな”状態のまま行動しても、

“そんな”状態を維持する

別の世界に向かってしまいます。

自分は自分の味方、とは

よく言ったものですね。

 

逆境の時にどう振舞うかは、

その後にも影響してきます。

自分を蹴飛ばして何とかしようとすれば、

後にもそういう人生が続くし、

全てを投げ出してしまえば、後も同じ。

ならばこの時を利用して、

自分を受け入れ、肯定し、

いつか今の状況が変化したとき、

もう少ししなやかな自分になっているための

場を与えられたと認識して、

生きてみるのはいかがでしょうか。

 

夜明け前が一番暗いものです。

 

ー今回の表紙画像ー

『近所の公園の花壇』

花を見てると落ち着きます。。。